大槻磐渓「春日山懷古」
(おおつきばんけい「かすがさんかいこ」)
「懐古」の詩は、歴史を振り返り、古人を偲のび、栄枯盛衰の無常や悲哀などを詠います。この「春日山懷古」は、大槻磐渓(一八〇一〜一八七八)が三百年前の上杉謙信(一五三〇一~一五七八)を偲んだ詩です。
春日山頭銷晩霞[春日山頭晩霞に鎖さる]
驊騮嘶罷有鳴鴉[驊騮嘶き罷んで鳴鴉有り]
憐君獨賦能州月[憐れむ君が独り能州の月を賦して]
不詠平安城外花[平安城外の花を詠いぜざりしを]
「春日山」は、新潟県上越市にある標高約180メートルの山で、戦国時代に上杉謙信の居城がありました。「晩霞」は夕やけ、夕ばえ。「驊騮」は周の穆王の良馬の名。ここは駿馬をいいます。「憐」は気のどくに思う。「能州」は能登の古名です。
〈上杉謙信ゆかりの春日山に来てみると、あたりは夕ばえにつつまれている。名馬の嘶きは聞こえない、ただ鴉が鳴いているだけだ。気のどくでならないのは、君は空しく能州の月を詠っただけで、平安城外の花を詠わなかったことだ〉
上杉謙信は戦国時代、越後(新潟県)の名将で、本名は景虎。
出家して謙信、不識庵といいました。幼少のころから胆力があり、行動力もあり、儒家の経典の四書五経をはじめ老荘も学び、国学にも通じていました。二十二歳、朝廷から従五位に叙され、上洛して後奈良天皇に拝謁し、公家たちと歌道を論じたり、将軍足利義輝と和歌の応酬をしたこともありました。人格高潔、大義名分を重んじ、民のことを第一に考え、租税を軽くし、産業を興し、開墾を奨励しました。また移民を促したり、交通の制を整えたりして、経済の安定を図りました。
頼山陽の『日本外史』では、武田信玄(法号は、機山)と川中島で五回戦ったとされています。天文二十三(一五五四)年の第二回の戦いでは信玄に切りつけ肩に傷を負わせ、永禄四(一五六一)年の第五回の戦いでは、夜中にひそかに川を渡り、明け方不意を襲って信玄の兵を敗走させたといいます。「鞭声粛々夜河を過る〜」と、山陽の「不識庵機山を撃つの図に題す」に詠われ、広く知られています。
天正四(一五七六)年能登の七尾城の畠山義隆が亡くなると重臣が織田信長と通じたため、翌年謙信は兵三万を率い、加賀に入って金沢を陥れ、進んで能登の七尾城を攻め、九月十三日に落としました。その時詠まれたのが「九月十三夜陣中の作」です。
霜滿軍營秋氣淸[霜は軍営に満ちて秋気清し]
數行過雁月三更[数行の過雁月三更]
越山併得能州景[越山併せ得たり能州の景]
遮莫家鄕憶遠征[遮莫れ家郷遠征を憶う]
〈霜が白く陣営を蔽い、秋の気は清々しい。何列かの雁が通り過ぎ、真夜中の月が清らかに照っている。越後・越中の山々に加えて、いま能州の風景を手に入れた。ままよ、故郷にいる家族が遠征の身を案じていたとて、今宵は心ゆくまでこの十三夜の月を眺めよう〉
大槻磐渓が「君が独り能州の月を賦す」と言うのは、この詩をさします。
謙信は加賀で織田信長の援軍を撃破し、いったん帰国して翌年雪解けを待って雌雄を決しようと信長に通告します。いよいよその時がやってきます。五万の大軍が春日山城下に集結し、出動しようとします。が、病によって謙信は急逝してしまいます。四十九歳でした。
大槻磐渓は、夕ばえの中を春日山に上り、謙信の城趾を訪ねます。昔、信長との決戦に兵が集結し、馬が嘶いていたであろう所には、ただ鴉が鳴いているだけです。磐渓はそこで「もし謙信が急逝しなかったなら、きっと天下を統一し、平安城外の桜を詠じたことだろう、が、気のどくなことに、戦いに勝って〝僻地の月〟は詠ったが、〝都の花〟は詠わなかった」と、謙信を偲んだのです。
背景を知ってもう一度詩を読み返すと、「晩霞」は悲しくも美しい紅色で、その色につつまれていると、悲しみが心の奥に「鎖」されてゆくような寂しい気持ちになります。この起句の視覚から、さらに承句では鴉の鳴き声の聴覚によって、いっそうの寂しさが添えられます。