杜牧「山行」
(とぼく 「さんこう」)
漢詩は学ぶほどにその魅力にとりつかれ、味わい深くなります。
毎回何首かの詩を取り上げ、奥深く豊かな詩の世界を少しだけ解きほぐしてみたいと思います。
出来る限りテレビやラジオの演目に合わせて詩を選びますので、吟詠の一助にお読みいただければ幸いです。ときには和歌も取り上げたいと思います。
高野蘭亭(一七〇四〜一七五七)のこの詩は、第9回(『吟と舞』二○一七年12月号)で参考として取り上げました。今回は少し詳しく見たいと思います。
漢詩は「おもい」を効果的に伝えるために「起承転結」で構成します。八句の律詩は二句を一聯として四つの聯を起・承・転・結にし、四句の絶句では一句ごとに起・承・転・結にします。七言絶句の例として杜牧の「山行」を見ましょう。
遠上寒山石徑斜 [遠く寒山に上れば石径斜なり]
白雲生處有人家 [白雲生ずる処人家有り]
停車坐愛楓林晩 [車を停めて坐に愛す 楓林の晩]
霜葉紅於二月花 [霜葉は二月の花よりも紅なり]
〈遠くものさびしい山に登ると石ころだらけの小道が斜めに続き、はるか白雲の湧くあたりに人家が見える。車をとめ、夕暮れの楓の林を気の向くまま眺めると、霜にうたれた楓の葉は、二月の花よりもいっそう紅く美しい。〉
前半の二句は、木の葉が枯れ落ちたさびしい山の、石ころだらけ小道を上った、と詠い起こします。小径が「斜め」ということは、小径が上へと続き、視線も上に向かっていることをいいます(起)。その視線の先、山の上のほうには雲がわき、「人家」が黒い点のように見えます(承)。「白雲」が隠者の世界や仙人の世界を詠うときに用いられることは、前回触れました。つまり、その白雲のわく辺りの家は、隠者の庵です。
さて、第三句は前半の上への視線から「転」じます。車を停め、「坐に」=気ままに、辺りを眺めます。すると、それまでの視線とは異なり、一気に視界が広がり、夕暮れ時の楓の林が目に飛び込んできます(転)。その景色は、春の紅の花よりももっと紅くて美しいモミジです。そこで第四句は、その感動を「霜にうたれた楓の葉は、二月の花よりもいっそう紅く美しい」と結びます(結)。
前半は「寒山」=さびしく彩りのない山、「石径」=白か黒の石ころだらけの小径、「白雲」=白、「人家」=黒い点と、殺風景な寒々としたモノクロームの世界を詠います。が、「車を停めて」視線を転換してからは、一気に「紅」の世界に転じます。夕陽に照らされた楓の
葉が「紅く」、美しく燃えています。モノクロームの世界からの転換によって、「紅」が印象深く心に焼き付きます。
七言絶句はわずか二十八文字で感動を詠います。ですから、ことばがすべて関連づけられて活きていなければいけません。この詩の「遠」「上」もそれぞれ関連しながら重要な働きをしています。「人家」は、白雲の生じるあたりにある隠者の家です、そこで「遠」は、俗塵たちこめる町から「遠く」離れた山にやってきたことをも暗示します。俗人のいない「寒山」にやってきて、閑雅な世界を堪能しようということだったのかもしれません。何か寂しくなることがあったのかもしれません。それゆえに「上」へ「上」へと「斜めに」続く石ころだらけの小道をわき目もふらずに上っていくのです。ようやく隠者の庵が見えたところで車を停め、辺りを眺めわたすと燃えるようなモミジ。一気に心も晴ればれします。
ただ単に山道を登って来て振り返ったらモミジだった、というのでは詩としての面白味に欠けます。またあちこち見ながら上ってきたら、モミジも見えたはずです。ひたすら上を見ながら上ってきたと言わなければ、転句が活きません。俗人もいない、自分の俗気も抜けた、そういう状態になったときモミジを見て、モミジの美しさにハッと心をうばわれたのです。
選ばれたことばと巧みな構成によって、私達も作者の美的体験を追体験し、作者と同じ感動を共有できます。ことばをどう選ぶか、全体をどう構成するか、というお手本の詩の一つです。
杜牧のころ、モミジを鑑賞する習慣はなかったようです。生気溢れる美しい春の花は誰もが心
躍らせて見入ったことでしょう。が、秋の葉は枯れて散りゆくだけですから、誰も見向きもしなかったのです。しかし、杜牧の「霜葉は二月の花よりも紅なり」によって、人々はモミジの美しさに気づかされたのです。その後、第四句の「紅於」が「モミジ」を表す「詩語」として定着します。