〈説明〉
ご質問の意味とお気持ちはよく分かります。確かに近年の吟詠の悪い特徴として、『読み』の部分がぎこちない・稚拙であるという現実は否定できません。しかしこれは、音程にこだわったための現象とは思っておりません。指定されたアクセントを守ろうとするために『読み』がぎこちなくなるのだと理解しています。
コンクールにアクセントの指定を導入する以前も以後も、上手な吟詠家の吟はどれも読みの部分の音程も正確です。昔の名吟家といわれた人達の吟を思い起こしても、アクセントこそ違え、言葉の音程が曖昧という人は稀です。昔は平板か無アクセントが主流であったため、言葉の中の音程の動きが少なく、言葉の音程そのものが注目されず、目立たなかったのだと思います。その点、最近の吟は言葉の中に「中高」の節が多くなったため、音程が不正確だととても目立ちます。
アクセントを守ろうとするために『読み』がぎこちなくなるのだと申しましたが、アクセントを守って吟じる人が全てぎこちないかというと、そんなことはありません。コンクールにアクセントの規定を導入した当初は『読み』の不自然な人が続出し、隂ではアクセントが悪者になっていましたが、最近ではだいぶ、ぎこちなさは減ってきました。極端な例を挙げますとよく理解していただけると思います。もともと共通語で生活している方にとって、アクセントの導入は何の違和感もなかったでしょうから。当初からぎこちなさはなかったでしょう。しかし生活語とは異なるアクセントを強いられる人にとって、吟の詩文は急に読みづらいものになったことでしょう。でもこれはいつまでも吟じにくいというわけではありません。吟じにくいのは、アクセント付き詩文にかじりついて吟じている間だけで、一つの詩文をアクセントごと覚えてしまった後は、ぎこちなさは無くなるはずです。しかしこれは初心者を除いての話です。初心者の場合、極端にぎこちない読みを、大きな節ととらえて丸ごと覚えてしまうので、何度吟じてもぎこちない吟を続けるのです。これは指導者の責任です。初心者とは逆のベテラン吟詠家、例えば少壮吟士の場合は、生活語が関西弁でも共通語アクセントによる吟を違和感なく流暢に吟じますし、その場でアクセントの変更を要求されても難なく応じることができます。もちろん、言葉の音程も正確です。つまり、言葉のアクセントや言葉の音程を正確にすることが、ぎこちなさをもたらすわけではないのです。吟者の習慣とは異なるアクセントで吟じようとするとき、どうしても慎重に読み上げることになり、各音節がバラバラになり、まとまりのない言葉となり、ぎこちなく聞こえるのです。「山川草木」を
「サン セン ソオ モク」と読むべきところを一音節ごとの高低に気を取られ、「サ ン セ ン ソ オ モ ク」と読んでしまうため、ぎこちなく、幼稚園生が吟じているようになってしまうのです。
私は、「アクセントに沿った吟詠法が最上だ!」と申し上げているわけではありません。「アクセントにとらわれると『読み』がぎこちなくなる」という命題を否定しているだけです。ご質問の内容はアクセントではなく「音程にこだわると『読み』がぎこちなくなる」という内容である事を忘れているわけではありません。どちらも『読み』がぎこちなくなる要因ではないという事を説明したいのです。
「言葉を発する時の音程は、特定の音階の音程以外の中途半端な音程も存在するはず」という内容はまさにその通りです。しかしそれは音楽以外の話し言葉に関する事で、詩吟と直接関連することではありません。敢えて関連があるとすれば、琵琶歌の中に『外し』という部分があり、その個所のみ芝居の台詞のように読み、その個所が過ぎると再び節をもった言葉に戻るということがありますが、詩吟の場合では出会ったことがありません。十二行詩や新体詩など長い詩を吟ずる時、『朗唱風』と称して長い節を短く整え、畳み込むように読み上げる場合がありますがこの場合もあくまで、音階に則って短く吟ずるだけて、曖昧な音程を用いるわけではありません。
「吟詠中は言葉の読みも正確な音程が求められる」
ご納得いただけましたでしょうか?