公益財団法人 日本吟剣詩舞振興会
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漢詩を紐解く! 2021年4月




賴山陽 「本能寺」
(らいさんよう ほんのうじ)

漢詩は学ぶほどにその魅力にとりつかれ、味わい深くなります。
毎回何首かの詩を取り上げ、奥深く豊かな詩の世界を少しだけ解きほぐしてみたいと思います。
出来る限りテレビやラジオの演目に合わせて詩を選びますので、吟詠の一助にお読みいただければ幸いです。ときには和歌も取り上げたいと思います。


 頼山陽(一七八〇〜一八三二)は、四十九歳のとき、中国明の李東陽(号西涯、一四四七〜一五一六)の「古楽府」に刺激されて『日本楽府』六十六首を作りました。

「楽府」とは、①前漢の武帝のときに設置された音楽をつかさどる役所、②そこに採集された詩、をいいます。一般的に役所のときは「楽府(がくふ)」、詩のときは「楽府(がふ)」と読み分けます。「楽府」は音楽に合わ せて歌う民謡調の詩です。音楽が失われてからは「楽府」の題を借りて替え歌が作られました。古い楽府になぞらえて作るので「擬古楽府」ともいいます。

 民謡は古来、社会や政治を風刺するはたらきがありました。民謡調の「楽府」もそうです。そこで、後には積極的にその性質を利用する「楽府」が作られるようになります。たとえば白楽天は「新楽府」五十首を作り、社会を諷刺します。「長恨歌」では玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋の物語を甘く感傷的に詠いますが、「新楽府」の「胡旋の女」では、西域から伝わった胡旋の舞いが上手な楊貴妃を、舞いによって君王の心を迷わせ反乱を招いた、と暗に批判します。

 明の時代になると歴史を題材とした「擬古楽府」が流行します。歴史上の人物を論じながら自分の意見を述べたり、あるいは類似の史実を用いて現在の政治を批判したり、諷刺したりします。明代では特に李東陽の「擬古楽府」が有名で、史実の出典を注記した『李西涯擬古楽府』二巻が刊行されました。それが日本に伝わり、翻刻され、頼山陽の「日本楽府」に影響を与えたのです。今回はそのなかの「本能寺」です。

  本能寺溝幾尺 [本能寺 溝は幾尺なるぞ」
 吾就大事在今夕 [吾大事を就すは今夕に在り]
 茭粽在手併交食 [茭粽手に在り茭を倂せて食う]
 四簷梅雨天如墨 [四簷の梅雨 天墨の如し]
 老坂西去備中道 [老の坂 西に去れば備中の道]
 揚鞭東指天猶早 [鞭を揚げて東を指せば天猶ほ早し]
 吾敵正在本能寺 [吾が敵は正に本能寺に在り]
 敵在備中汝能備 [敵は備中に在り 汝能く備へよ]

〈「本能寺の溝の深さは何尺あるだろうか?私が重大な事に取りかかるのは今夜からだ」、と連歌の席で明智光秀は傍らの者に問い、手に持った粽を皮ごと食べた。四方の軒端からは梅雨の雨が滴り落ち、空は墨を流したように真っ黒。〉

 本能寺の変は天正十(一五八二)年六月二日に起こりました。それに先立つ五月二十八日、明智光秀は愛宕権現西坊で紹巴らと連歌を興行し、「ときはいま天が下しる五月かな」と詠みます。そしてその席上、突然傍らの者に「本能寺の溝は深さ幾尺ぞ」と質問し、心ここにあらず、チマキを皮ごと食べたといいます。詩中の「茭粽」の「茭」はチマキを包んでいる葉、「粽」はチマキです。「天墨の如し」は空が真っ黒なこと。不穏な雰囲気を醸し出します。

〈老ノ坂峠を西に行けば、豊臣秀吉が毛利を攻めている備中へ向かう道。だが、光秀が鞭を挙げて指したのは東、まだ空が明け切らないころだった。その時、光秀は「吾が敵は本能寺にあり」と下知した。が、本当の敵はじつは備中にいる秀吉だった。光秀よ、お前は秀吉に備えるべきだったのだ。〉

 織田信長は、丹波亀山城にいた光秀に高松城を攻撃している豊臣秀吉の増援を急遽命じました。老ノ坂峠は丹波と山城との境にあります。光秀は六月一日夜、一万三千の軍を率いて亀山城を出発し、老ノ坂峠に至ります。右折すれば備中に向かう道です。しかし、左に道をとって二日の早朝に信長のいる本能寺を囲みます。急襲 された信長は自刃します。その知らせを受けた秀吉は毛利方と和議を結んで京都に向かい、光秀軍を打ち破ります。惨敗した光秀は落ち延びる途中、山城郡小栗栖で土民に殺されました。

 詩では、光秀の反逆の理由も、本能寺での戦いや、信長の行動・心理にもいっさい触れません。光秀の心の奥の闇をちょっとした言動によって暗示し、真っ黒な空から降りそそぐ雨の音を効果的に用います。

 「汝は秀吉に備えるべきだったのだ」という結びは、光秀の不明を皮肉るとともに、どんな理由があろうと反逆は許せない、という山陽の強い思いが伝わってきます。