李白「汪倫に贈る」「独り敬亭山に坐す」
(りはく おうりんにおくる ひとりけいていざんにざす)
漢詩は学ぶほどにその魅力にとりつかれ、味わい深くなります。
毎回何首かの詩を取り上げ、奥深く豊かな詩の世界を少しだけ解きほぐしてみたいと思います。
出来る限りテレビやラジオの演目に合わせて詩を選びますので、吟詠の一助にお読みいただければ幸いです。ときには和歌も取り上げたいと思います。
李白は漂泊の詩人といわれます。旅をして興が湧くと当意即妙に詩を作り、人々に贈っていました。今回はその一つ。
贈汪倫 汪倫に贈る
李白乘舟將欲行 [李白舟に乗って将に行かんと欲す]
忽聞岸上踏歌聲 [忽ち聞く 岸上踏歌の声]
桃花潭水深千尺 [桃花潭水 深さ千尺]
不及汪倫送我情 [及ばず 汪倫が我を送るの情に]
「我が輩李白が舟に乗って今まさに出発しようとしていると、突然、岸の上で踊りながら歌う声が聞こえてきた。桃花潭の水の深さは千尺もあるが、汪倫が私を見送ってくれる情の深さには及ばない」。自分の名前の「李白」、相手の名前の「汪倫」、別れの場所の「桃花潭」と、固有名詞が三つ詠み込まれて、とても分かりやすい詩です。
今日詩を作るとき固有名詞は使わないように指導します。固有名詞は印象が強く、詩中で固有名詞だけが際だったり、あるいは固有名詞が単なる説明のためのものになったりして、詩としての面白みに欠けることが多々あるからです。が、この詩は固有名詞の字義がうまく利用され、逆に印象深く、美しい詩になっています。
まず「李白」。これは文字としては「李」と「白」で、「李」はスモモですから、「李白」はスモモの白い花をイメージさせます。自分の名前と白い花をかけているのです。「桃花潭」は淵の名前ですが、「桃花」からモモの花の咲く淵が見えてきます。別れの場所は、白いスモモの花と赤いモモの花が照りはえる美しい水辺。しかも「桃花潭」に続く「深千尺」がまた絶妙な働きをします。「千尺」はもちろん実数ではありませんが、淵の深さが千尺もあったら、水は静かに青々と澄んでいます。この「深い青」にモモの紅、スモモの白が、いっそう美しく照りはえるのです。
「汪倫」はどうでしょうか。「汪倫」も「汪」と「倫」に分けることができます。「汪」は、水の広くて深いさま、広大なさま、ゆたかなさま、をいいます。つまり、前の句では「深さ千尺」と、垂直方向の「深さ」をいっているのに対して、第四句では水平方向の「広さ」「ゆたかさ」をいっているのです。「倫」はどうでしょうか。「倫」は「なかま」、倫理道徳などというように「人のふむべき道」をいいます。人の道には、人が生まれながらにもっている「情」を大切にすることも含まれます。つまり「汪倫」は、人名であるとともに、「広くて深い情を内にひめている友」として働いているのです。それ故に句末の「情」と強く結びつきます。
第二句の「忽聞」も効いています。もし汪倫がすでにその場にいたなら、踊ったり歌ったりしても特に驚きません。が、別れの寂しさを抱きながら、シンと静まりかえった深い淵で、いざ出発というとき、予期しない盛大な見送りのパフォーマンスが繰り広げられたらどうでしょうか、予期していないだけに、喜びは何倍にもふくらみます。その心の動きが「忽ち聞く」にこめられているのです。
汪倫の「情」に応えるために、そこで李白は、汪倫の情は青々と澄む千尺の淵よりも深くて広いと、その情の美しさを最大限に詠うのです。「桃花潭」は汪倫の住んでいた村の名所で、安徽省涇県の西南にあるといいます。
この詩に着想を得た和歌があります。
棹させどもそこひも知らぬわたつみの深き心を君に見るかな 紀貫之
李白はロマンティストで情が深く、酒好きで豪快でしたが、うまくいかないこともありました。そのような時に詠ったのが次の詩です。
獨坐敬亭山 独り敬亭山に坐す
衆鳥高飛盡 [衆鳥 高く飛び尽くし]
孤雲獨去閑 [孤雲 独り去って閑なり]
相看兩不厭 [相看て両つながら厭はざるは]
只有敬亭山 [只だ敬亭山有るのみ]
第二句に「孤」「独」の二字が詠み込まれています。ずっと見ていても厭にならないのは、敬亭山よ、お前だけだ、と擬人化しているところに、人の世でのままならぬ思いが伝わってきます。「敬亭山」は安徽省宣城県の北にある山で「昭亭山」ともいいます。