李白「蘇台覧古」「越中覧古」
(りはく そだいらんこ えつちゅうらんこ)
漢詩は学ぶほどにその魅力にとりつかれ、味わい深くなります。
毎回何首かの詩を取り上げ、奥深く豊かな詩の世界を少しだけ解きほぐしてみたいと思います。
出来る限りテレビやラジオの演目に合わせて詩を選びますので、吟詠の一助にお読みいただければ幸いです。
ときには和歌も取り上げたいと思います。
中国の春秋時代(前七七〇〜前四〇三)、江南地方では呉と越が覇を争っていました。呉の都は今の江蘇省蘇州、越は今の浙江省紹興です。呉越の争いで、越の美人の西施が呉に献上され、呉王・夫差(?〜前四七三)は西施に溺れて政治を怠り、越に亡ぼされてしまいます。
歴史をすこしふり返ります。呉王闔閭が越王勾践と戦い負傷し、それがもとで死ぬと、息子の夫差が位を継ぎます。夫差は薪の上で寝起きして(=臥薪)その痛さで復讐心をかきたて、やがて越王勾践を打ち負かします。越王勾践は会稽山に逃げ込み、講和を申し入れます。夫差の臣下の伍子胥が後々の憂いになるからと講和に反対しますが、越から賄賂を受け取っていた大夫伯話の勧めにより、夫差は越王を許します。
越王勾践は国に帰ると「会稽の恥を雪ぐ」べく、苦い肝を嘗めて(=嘗胆)屈辱を忘れず、民とともに耕し、夫人は織物を織り、質素な生活にたえて国力を充実させます。一方の夫差は勝利におごり、壮麗な宮殿を造って資沢な生活をし、越から献上された西施のとりこになって、政治をおろそかにします。やがて伍子背の予言どおり、二十年後越が呉を破ります。夫差は講和を申し出ますが、越は許さず、呉は滅びてしまいます。
李白の詩には、その呉の国に人質となった西施が最後に詠われます。題名の「蘇台」は、春秋時代の呉王・夫差が姑蘇山に建てた宮殿のことで、今の蘇州の西南十五キロ、霊岩山寺がその跡とされています。「覧古」は古跡を見て思いを詠うことで「懐古」と同じ意味です。
蘇臺覧古 蘇台覧古
舊苑荒臺楊柳新 [旧苑荒台 楊柳新たなり]
菱歌清唱不勝春 [菱歌清唱 春に勝へず]
只今惟有西江月 [只今惟だ西江の月のみ有り]
曾照呉王宮裏人 [曽て照らす 呉王宮裏の人]
柳は悲しみをさそう植物です。第一句は、春になって息を吹き返したかのように青々と芽をふく柳と、荒れはてて滅び行くだけの人の世のなごりとを対比して、懐古の情をかき立てます。そこに、乙女たちが菱を摘みながら歌う清らかな歌声が聞こえてきます。すると、青春の歌声と懐古の情がとけあって、たえられないほどに甘く哀しい春の感傷に心がいっぱいになります。
後半は、永遠の象徴の月が詠われます。華やかだった呉の宮殿のなごりはもはや何もありません。ふと見ると、今はただ、月が西の川を照らしているだけです。その月は、かつて呉王夫差の宮殿にいた美女、西施を照らしていたのだ、と、永遠の月の光によって人の世のはかなさがいっそう明らかになり、作者はますます感傷の淵に沈みます。
第二句の、乙女たちの歌声が西施を導く伏線になっていることも見逃せません。華やかで美しい青春の思い出と懐古の情、無常と永遠とがとけあって、詩全体になんとも言えない「情」が醸し出されます。
呉王夫差が西施のために建てた宮殿を館娃宮といいます。霊岩山寺の右手、高台になったところの花園には、西施が化粧に使ったという井戸「呉王井」や、花を観賞した「玩花池」、月の夜に遊んだ「玩月池」、化粧を洗い落とした「脂粉塘」などがあります。山の中腹には、太湖をながめて故郷を懐かしんだという「西施洞」もあります。
「蘇台覧古」と対をなす形で「越中覧古」も作られています。「蘇台覧古」は第一句から第三句までが「今」で第四句が「昔」を詠いますが、「越中覧古」はその逆に第一句から第三句までが「昔」で第四句が「今」を描写します。「昔」は華やかな凱旋のようすです。
越中覧古 越中覧古
越王勾踐破呉歸 [越王勾践呉を破って帰る]
義士還家盡錦衣 [義士家に還って尽く錦衣す]
宮女如花滿春殿 [宮女花の如く春殿に満つ]
只今惟有鷓鴣飛 [只今惟だ鷓鴣の飛ぶ有り]
「越中」は越の都、「義士」は越王とともに戦った人々。「錦衣」は錦の衣服で着飾ること。恩賞で賜ったものです。「鷓鴣」はキジ科の鳥で、鳴き声が悲しく聞こえます。この詩は煌びやかさとわびしさとの対比で、懐古のおもいを詠います。