公益財団法人 日本吟剣詩舞振興会
Nippon Ginkenshibu Foundation
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漢詩を紐解く! 2020年11月




正岡子規「春日家に還る」
(まさおかしき しゅんじついえにかえる)
夏目漱石「春日偶成」
(なつめそうせき しゅんじつぐうせい)


漢詩は学ぶほどにその魅力にとりつかれ、味わい深くなります。
毎回何首かの詩を取り上げ、奥深く豊かな詩の世界を少しだけ解きほぐしてみたいと思います。
出来る限りテレビやラジオの演目に合わせて詩を選びますので、吟詠の一助にお読みいただければ幸いです。
ときには和歌も取り上げたいと思います。


 夏目漱石と正岡子規は、ともに慶応三年(一八六七)に生まれた同い年です。

 子規は、十七歳(年齢は数え)の明治十六年(一八八三)上京し、翌年九月、大学予備門に入学します。同級に漱石がいました。子規は十九歳のとき数学の点数が足りないため落第します。二十歳のとき、大学予備門が第一高等中学校に改称され、二人は一級の差のまま、ともに同校予科に編入します。

 子規は九月に予科第二級に進学します。一方、漱石は七月の予科二級から一級への試験に落第し二級に留まります。その後漱石はずっと首席を通しますが、それぞれ一回落第して、明治十九年(一八八六)二十歳の九月の時点でともに予科二級だったことは奇しき縁というほかありません。

 明治二十一年(一八八八)二十二歳のとき子規は漢詩・漢文・短歌・俳句などを織り交ぜて『七卿集』を執筆します。漢詩は子規に一日の長のあることを識った漱石は、明治二十二年(一八八九)二十三歳、房総を旅して漢文漢詩の紀行文『木屑録』を執筆します。その評に子規は言います。「余の経験によると英学に長ずる者は漢学に短なり、……独り漱石は長ぜざる所なく達せざる所なし。然れども其英学に長ずるは人皆之を知る。而して其漢文漢詩に巧みなるは人恐らくは知らざるべし」と。

 漱石の『木屑録』に刺激されて、明治二十四年(一八九一)二十五歳、今度は子規が房総を旅し、紀行文『かくれ蓑』、漢文の『隠蓑日記』、『かくれみの句集』を執筆します。その後二人の交友は更に深まりますが、交友の始まりが漢詩・漢文であったことは改めて確 認しておきたいと思います。さて、漢詩「春日家に還る」は明治十二年(一七八九)子規十三歳の作品です。この前年には「子規を聞く」を作っています(月刊『吟と舞』平成二十九年五号に掲載)。

  春日還家    春日家に還る  正岡子規
 乗車騎馬早歸來 [車に乗り馬に騎って早く帰り来たる]
 一謁雙親喜自催 [一たび双親に謁すれば喜び自ずから催す]
 處處鶯啼春似海 [処々鶯啼いて春海に似たり]
 故園芳樹待吾開 [故園の芳樹 吾を待って開く]

 春の日、久しぶりに帰省した喜びを詠います。「車に乗ったり馬に騎って急いで家に帰ってきた。 両親にお会いするやひとりでに喜びがこみ上げてくる。あちらこちらで鶯が啼き、春は海のように広がり、ふるさとの木々は私の帰るのを待っていたかのように花を咲かせている」。一刻も早くと家に帰ってきた、親の顔を見てうれしくなった、と十三歳の少年の素直な気持ちが詠われています。後半は親に会えたうれしさを春の海のようだと、その大きさを海に喩え、両親の喜びを、自分の帰りを待って花が咲いたようだ、と満開の花に例えています。「春海に似たり」は、春のような両親のふところにいだかれた精神的な安らぎも感じられます。「雙親」とありますが、父親は五歳のときに失っていますから、この詩は実際の体験を詠ったものではなく、仮想体験を詠ったものです。少年のときから豊かな心をもっていたことがうかがえます。

 漱石は英国留学中と帰国後小説の執筆に忙しかった三十六歳から四十三歳の間には作詩がとだえますが、晩年は堰を切ったように作り、生涯一八〇首ほどの漢詩を残しています。「春日偶成」は、修善寺大患後、 病状が小康状態にあった明治四十五年、四十六歳の作品です。

  春日偶成   春日偶成  夏目漱石
 莫道風塵老 [道ふ莫かれ 風塵に老ゆと]
 當軒野趣新 [軒に当たれば野趣新たなり]
 竹深鶯亂囀 [竹深うして鶯乱れ囀り]
 清畫臥聽春 [清昼臥して春を聴く]

 明るく閑雅な趣にみちた作品です。「俗塵にまみれて老いてゆくなどと嘆く必要はない。縁側に出ればいつも新たな野趣があふれているのだから。竹は深々と茂り、あちこちから鶯の声が聞こえてくる。こうして、閑かな昼下がり、横になって春の情趣を味わうのだ」。大患のあと、暖かな縁側で横になりながら、身近な自然にひたる喜びが詠われています。