公益財団法人 日本吟剣詩舞振興会
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吟剣詩舞の舞台と美術 2020年10月

菊水流 家元 藤上南山

吟詠・剣舞・詩舞が演じられる舞台にはさまざまな種類があります。
長年にわたり観客を魅了する舞台を演出してきた藤上南山氏は、自ら詩を書き、曲を作り、
ときには大道具や小道具まで作ってしまう類い稀な演出家として本誌でも数ヵ所で紹介されている。
その藤上氏に、吟剣詩舞における舞台と美術について
自ら描いたイラストを交えて、初心者にも分かりやすく何回かに分けて解説していただくことになった。

吟剣詩舞の舞台と美術



舞台を作り上げる要素


『舞台演出について』


 舞台において何かを演じるということは、その演じ物の内容を表現しつつ、さらによりよき感動や歓びを観客に伝えるということです。そのためには舞台をより効果的に演出する舞台美術が大事な要素となってきます。

 能楽・歌舞伎・日本舞踊・邦楽など日本には多くの演じ物がありますが、それらの舞台に対しての演出には、昔からその演じ物によって色々と工夫が重ねられてきています。



 

 『送り手と受け手』


 舞台演出に送り手と受け手という言葉があります。
送り手とは舞台上で演技・演奏をする側のことを言い、受け手とは観客側のことを言います。
吟剣詩舞においても吟者・舞方・音楽・照明・舞台装置等すべてが送り手であり、どの分野においても受け手(観客)を意識しておかねばなりません。

 舞台上で吟者が、あるいは舞方が、また、音楽その他が自己満足的に自分よがりで働いていたのでは、観客に満足してもらうことはできません。あくまでも観客に対しての心配りが必要であります。




 『吟剣詩舞の音楽について』


 吟剣詩舞の舞台創りでは、吟に、舞に、音楽にと、それぞれのどの分野も大切ですが、強いて順番をつけるとすると一番大切なのは吟詠でありましょう。そして、その吟詠を効果的に盛り上げるために必須なのが伴奏音楽です。つまり吟ともども音響が第一と考えられます。次に、その作品の内容をわかりやすく表現する役目が剣舞であり詩舞ということになります。そして、さらに吟と舞の表現を一層鮮明に彩付けし、深みを付けるのが照明・大道具による演出です。

 日本音楽は昔から社会的身分によって音曲の種類がさまざまに決められていました。

 平安時代の貴族たちは雅楽を好み、鎌倉時代の武士たちは能楽、あるいは琵琶などを好みました。一般庶民の間では念仏踊りなど神事的要素をもった唄や踊りが流行っていました。


 江戸中期から後期にかけては、官能的なまでに人間性が解放された歌舞伎音楽に三絃が多く用いられ、遊里的歌謡が流行しました。特に歌舞伎音楽や日本舞踊に用いられている音曲には大きく分けて二つの流れがあります。

一つは、語り物と呼ばれ「浄瑠璃(義太夫・一中節・常磐津・清元・新内)、平曲、薩摩琵琶、筑前琵琶、謡曲、浪曲」などがあります。

 今一つは、歌い物と呼ばれ、「長唄、端唄、小唄、大和楽、荻江節、箏曲、地唄、民謡、朗詠、雅楽」などがあります。

 私たちが平素親しんでいる吟詠はこの日本音楽のどの位置にあるのでしょう。

 吟詠の内容は様々で、歌い物の中の朗詠に属するものもあれば、また、語り物的なものもあり、両方を兼ね合わせたものと言えるでしょう。

 そうしたことを考えますと、これからの吟詠も舞も、もっと深く幅広く探求していかねばなりません。




伴奏の変遷


そして「吟と舞」の美



 ひと昔前までは、吟詠は無伴奏でした。音程など関係なく胸を張って力いっぱい吟じるのが正しいとされ、「吟は正しい心に共鳴する魂の叫びである」また、「質実剛健をもって心の修養に励むべし」と教わってきたものです。

 しかし、時代とともに、そうした質実剛健だけの自分よがりの剣詩舞で良いのであろうか……と考え始め、私は昭和39年(31歳の時)、初めて吟詠に尺八と琴を取り入れることにしました。その後、鼓や中国音楽の二胡の演奏者にも協力を頂き、吟詠の伴奏音楽を非常に大切に考えるようになったのです。

 生の吟詠のみでなく、音楽が入ることによって前奏、後奏が加わり、剣舞、詩舞の一題一題を作品として考えるようになりました。そうするとイメージも広がってきます。振り付けにも幅が広がり深みが増し、膨らみができてきました。以来、昭和3年まで吟詠に尺八と箏曲の協力で舞台を務めてきましたが、時代とともに最近ではシンセサイザーなど洋楽器による演奏が増してきました。

 しかし、たとえ洋楽器を利用しても、その音律はやはり邦楽的な音の作り方の方が吟詠に適していると思えます。また、同じ邦楽でも、日本舞踊なので演奏されている「長唄や義太夫」などでは異なり、深い意味をもっている漢詩や和歌などの演奏には、落ち着いた深みのある音色が望ましいといえましょう。

 吟詠に用いている漢詩は、どれ一つとっても優れた文学であり、また、儒教的精神のこもったものも多く含まれ襟を正したくなります。 それは吟詠ばかりでなく剣舞、詩舞においても同じで俗物的な動作は避け、清楚で品格のある美しさを要求したものです。



『美とは何か』


 "美しい"という言葉は、様々な芸術や芸能に接した時、誰もが感じ、また、言い合う言葉ですが、この美しさの感動もそれぞれの芸術や芸能の種類によって違いがあり、また人によって感じ方も様々です。

 ベートーヴェンの第五と、ゴッホの画と、ボリショイバレエ団のバレ工を並べてみても、それぞれが異なった感動を与えてくれます。
 音楽は音を描く時間の「美」であり、絵画は色彩や形の線による空間の「美」とも言えます。
舞は肉体を使っての時間と空間による「美」であります。

 さて、同じ感動を与え、また、味わうことのできる絵画の場合は、いつまでもその形を人の目に残すことができますが、音を素材としている音楽や、また、私たちの吟詠は、吟じながら瞬時に消えてゆきます。

 また、剣詩舞においても同じことで、形から形へ、その形は次々と進みながら順次消えてゆく芸術です。

特に、舞の場合は音楽と違って素材そのものが肉体であり、生の動きを絶えず営み続けていることと、更に、それを観ている観客が同じ肉体をもっている点で、その美的感覚は他の芸術、芸能とは異なるものであります。

 生理的肉体の醸し出す「美」は一時の花であり、その花をもって吟の内容を豊かに演出できるのも剣詩舞であります。
吟詠も剣詩舞も、「いつまでも人の心に残る美しさ」を求めゆくこと。それこそが吟剣詩舞のこれからの大きな課題であります。