王建「中秋月を望む」
漢詩は学ぶほどにその魅力にとりつかれ、味わい深くなります。
毎回何首かの詩を取り上げ、奥深く豊かな詩の世界を少しだけ解きほぐしてみたいと思います。
出来る限りテレビやラジオの演目に合わせて詩を選びますので、吟詠の一助にお読みいただければ幸いです。
ときには和歌も取り上げたいと思います。
今回はEテレで放送される詩歌を取りあげます。まず、王建(七七八?~八三〇?)の「中秋月を望む」です。唐の時代のすべての詩
を集めた『全塘詩』では「十五夜望月寄杜郎中」(十五夜月を望み杜郎中に寄す)となっています。 陰暦の八月十五日、郎中の職にあった杜さんに贈った詩です。
中秋望月
中庭地白樹栖鴉 [中庭地白くして 樹に鴉栖む]
冷露無聾温桂花 [冷露声無く 桂花を湿す]
今夜月明人盡望 [今夜月明 人尽く望む]
不知秋思在誰家 [知らず 秋思の誰が家にか在るを]
第一句は、庭に照る月光の白と、樹上の鳥の黒とを対照的に写し出します。第二句は、冷たい露がいつしか結び、モクセイの花がしっとりうるおっていることを言います。「桂」はカツラではなく、モクセイです。
モクセイは雨の後や露に濡れたりすると、いっそう香りが強まります。 中秋の名月のころ花が咲き香ることから、詩歌ではよく「桂」と「月」とをいっしょに詠うことがあります。縁のあることばなので縁語と言いますが、その縁とは次の神話にもとづきます。
中国の神話では、月に「端嫉(短嫉)」が住んでいるといいます。昔中国には太陽が十個あり民が苦しんでいるのを見かねた弓の名人の羿が一つだけ残して他は射落としたといいます。それを称え西王母が羿に不老不死の霊薬を授けたのですが、妻の端嫉が盗み飲み、身が軽くなって月に昇り女神となりました。月の宮殿の庭に「桂」の木があり、中秋の明月のときにはその香りが地上にまで香った、といいます。
ここから、月のことを「嫦娥」「桂宮」とも言います。月はほかに、大皿に似ているので「玉盤」、鏡のように丸いので「明鏡」
「飛鏡」などとも言います。 また白い免が住んでいるという伝説から「白免」、また大きな蟾蜍が棲んでいるので「蟾蜍」とも言います。日本では免が餅を搗いていると言いますが、中国では仙薬を錬っていると言います。「蟾蜍」はヒキガエルで、月が欠けるのは蟾蜍が月を飲み込むため、と考えられていました。
漢詩で「月」と言えば満月をさします。三日月なら「眉月」「繊月」などと言い、半月なら「半輪の月」などと言います。ちなみに「輪」は車輪、また車輪のように丸くなっているものをさし、月や太陽を「月輪」「日輪」と言います。日本語では「花一輪」などと言いますが、漢詩では花には「輪」と言いません。
詩の前半は、まるで月の世界のような美しい光景です。モクセイのあまい香りのたちこめる夜、清らかな月を見て、人は何を思うでしょうか? 月は遠く離れた所でも同じように見ることができます。だから、月を見て、別れた人はどんな思いでこの月を見ているだろうか、などと相手を思ったり、自分が一人でいる寂しさを嘆くことになります。
今夜月明人盡望 [今夜月明 人尽く望む]
不知秋思在誰家 [知らず 秋思の誰が家にか在るを]
今夜の中秋の名月を人はみな眺めているであろうが、秋の物思いにふける人はだれであろうか。自間するような、また別れている
人に問うようなつぶやきの口調です。一人で月を眺めるさびしさと、別れている人への思いが婆み出ます。
和歌も見ましょう。藤原顕輔の作品です。
秋風にたなびく雲の絶え間より
もれ出づる月の影のさやけさ
風になびく薄雲に月の光が遮られています。一瞬、雲の切れ間から秋の澄んだ空に月の光が射します。見えそうで見えないもどか
しさと、見えたときのうれしさ、そして月の光がいっそう美しくらかに照るのを見た感動を、清澄な調べで詠います。
今年(二〇一七年)は、十月四日が旧暦の八月十五日に当たります。十五夜といっても「望」つまり「満月」であるとは限りません。今年の中秋の「望」は十月六日午前三時四十分(旧暦八月十七日)です。
さて、今年の月はどのように見えるでしょうか。たなびく雲間からでしょうか、雲つない空に一輪輝くでしょうか。それとも……。そして何を思うでしょうか。