公益財団法人 日本吟剣詩舞振興会
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吟詠音楽の基礎知識 2020年6月

〈説明〉

 本質的には回答の通りなのですが、日本の伝統音楽は口伝と 言われる通り、指導者が手本を示し、それを真似るという稽古の形態が一般的でした。 この理由の一つは、楽譜が無かったり、または不完全で、独学のできない状況が普通だったからです。これは、日本の伝統芸能が家元制度によって維持・伝承されてきたことと関係があります。体制側から見れば、正確で行き届いた楽譜を発行することで、誰もが短期間に、しかも稽古を受けること無く上達してしまっては、大変不都合だったのです。本当に上達し、奥義を極めてほしいのはただ一人、後継ぎだけなのです。一種の封建制の名残です。

 余談ですが、五十年前の学園闘争の時期には、大学の邦楽部 (クラブ) の多くが家元制の指導者を解任しました。

 邦楽は各分野ごとに専用の楽譜があり、詩吟・謡曲・民謡・小唄などみな異なった形式の楽譜を使っているので、詩吟の楽譜が分るからといって、謡曲の楽譜も分かるという訳ではないのです。

 近代になり、分野によっては楽譜が改良され、分かりやすくなったものもありますが、基本的にはあまり変わっていません。

 最近は、詩吟の楽譜にもある程度、音の高さを表示するようになってきましたが、五線譜と決定的に異なるのは、拍子の標記が無いことです。 つまりどの部分をどのくらい延ばせばよいのかが分らないのです。

 これらの理由で、現在も詩吟は口伝による稽古が行われておりますが、楽譜が完備されていれば必要性は少ないはずで、楽譜の曖昧さが口伝を必要とする訳です。もっとも、合吟の形で稽古する際は、吟歴の浅い人に合わせる意味もあって、手本を示すことが必要かもしれません。

 ここから、手本を示す方法による稽古の弊害を述べます。手本を示されたお弟子さんは、一生懸命、先生の真似をしようと頑張るでしょう。しかし、指導者の思惑とは違った部分を真似ることが多いのです。声に特徴のある先生なら声を真似ようとし、コブシに特徴があればコブシを真似ようとします。一般論ですが、初心者が感じる先生の特徴は、大抵の場合、欠点です。 先生に対する尊敬の念が強いほど、その欠点をしっかりコピーします。

 私が尺八を習っていた頃、同門の仲間と一緒に尺八屋へ行き、商品の尺八を手当たり次第に吹いていると、店主が「君達、舩川さんのお弟子さん?」と聞かれ、びっくりすると同時にうれしかったことを覚えています。以来ますます先生の真似をすることに一生懸命でしたが、ある日、舩川先生から「入れ手(モミテ)が泥臭いなー。もっとスッキリ吹いた方がいいぞ」と言われ、大ショック!自分としては先生の手を真似しているつもりで、しかも他の誰よりも似ていると、内心満足していました。 しかし先生から見ると「変なことしてるなー」と思われたのでしょう。 確かに泥臭いと言われればそうも思えますが、自分としては『人間臭い』という印象で好きな特徴でした。

 手本を示すと良くない理由のもう一つは、「先生に十分似ている」と思った時から、上達とその努力が止まってしまうという事実です。つまり、先生を越えられない指導を受けることになり、この指導法が何代 も続くと、次第にレベルが下がってしまうことになります。手本を示すということは、手本のレベルで蓋をしてしまうことなのです。

 吟界における過去の高名な指導者を思い起こしてみると、そのほとんどが先代とはかけ離れた傾向の吟詠を演じたり、または直接の指導者がいないなど、人の真似ではない場合が多いです。

 手本を示す指導法の弊害は指導者自身にも及びます。

 若い時の艶のあった綺麗な声が、還暦を過ぎるとガサガサになってしまったという人を何人も知っています。 また歳を重ねても目立って声が悪くならなかった人も知っています。毎日のように吟詠指導をしていると、間違いなく声は潰れますが、会員を抱えていない人は四十年経っても、あまり声が変わらないという事実を見てき ました。毎日のように吟詠指導をされる方は、お弟子さんのためだけでなく、自分のためにも、声を使うことを惜しまれては如何でしょうか。