白居易「村夜」
漢詩は学ぶほどにその魅力にとりつかれ、味わい深くなります。
毎回何首かの詩を取り上げ、奥深く豊かな詩の世界を少しだけ解きほぐしてみたいと思います。
出来る限りテレビやラジオの演目に合わせて詩を選びますので、吟詠の一助にお読みいただければ幸いです。
ときには和歌も取り上げたいと思います。
白居易は字を楽天といいます。「白楽天」で覚えている人も多いと思います。字とは「呼び名」のことで、人を呼ぶときに用いる名です。字で呼ぶのが礼儀ですが、もちろん仲の良い友達や目下の者には実名を呼んでもかまいません。字はたいてい実名と関連づけて自分でつけます。「居易」は「居ること易し」、生活がラク。「楽天」は「天命を楽しむ」、境遇に安んじる、です。楽天的であればどんな境遇でも乗り切れます。
しかし、悲しみはいつも身近にあります。「村夜」の詩を読んでみましょう。
霜草蒼蒼蟲切切 [霜草蒼々として虫切々]
村南村北行人絶 [村南村北 行人絶ゆ]
獨出門前望野田 [独り門前に出でて野田を望めば]
月明蕎麦花如雪 [月明らかにして 蕎麦 花雪の如し]
七言絶句は第一句・第二句・第四句の七文字目を押韻します。七
絶のほとんどは「平らな調子」(平声と言います)の漢字で押韻しますが、この詩は「切」「絶」「雪」と、「つまる調子」の漢字が使われています。ちなみに「ちょう」と読む「蝶」も「つまる調子」の漢字です。
古典の授業で「蝶蝶」を平仮名で「てふてふ」と書くと習いましたが、奈良・平安時代では「チョウチョウ」という発音ではなく「テプテプ」という発音でした。当時は「゜」の記号はありませんでしたので、「プ」を「ふ」で表記していたのです。
第一句目の「霜草」は霜にうたれた草、生気のない草です。「蒼蒼」は、青々としているようす、または、灰白色を表します。頭髪に白髪がまじっているようすを白居易は「両鬢蒼蒼」(「売炭翁」)といっています。「切切」は音声のひしひしと悲しくせまるさまを表します。霜枯れの白い草が生気なく生えているなかで虫が切々と鳴いて
います。声を出して詩を読むと「切々」の響きが耳に残ります。
第二句では、村の南も北も、つまりどこを見ても、歩いている人のいないことをいいます。 寂しい景色です。作者は、第三句に言うように、独り門を出て、人が通らなくなった寂しい野の田圃を眺めています。なぜ一人でこんなさびしい景色を眺めているのでしょうか?なぜこんなに鄙びたさびしい景色を詠うので
しょうか?
この詩は、作者40歳、親の喪に服して郷里の下邽に帰っていたときの作品です。
下邽は長安から東北へ3キロほど。中国では両親が亡くなると官職をいったん辞めて郷里に帰り喪に服しま
す。長安京兆府の役人だった白居易は下 の渭村で40歳の夏から43歳の冬まで過
ごします。その時の作品です。だから、さびしい景色に目が向いたのでしょう。見るもの聞くものがすべてさびしさをさそったのでしょう。また白居易は、母の死の前年、39歳のときわずか3歳の娘金鑾子も亡くしています。
詩は、第四句で、美しい景色が印象深く詠われます。
月明蕎麦花如雪 [月明らかにして 蕎麦 花雪の如し]
月明かりのもと、ソバの花が雪のように真っ白だ、と。「雪」の字は単に白さを言うだけではなく、つめたく冷え切っている作者の心を表します。また、明るい月に照らされたソバの花のひときわ白い空間は、悲しみでぽっかり空いた心の空白を暗示します。「つまる調子」の押韻によって、心のなかで鳴咽しているような、切々としたおもいが伝わってきます。
白居易の時代は牡丹の花がもてはやされました。色の濃い一叢の花は、中流階級の家十軒分の租税に匹敵したといいます(白居易「買花」)。が、ソバの花は人目を引く色も香りもなく、詩に詠われることはありませんでした。
下邽では次の「暮立」(暮れに立つ)もあります。
黄昏獨立佛堂前 [黄昏独り立つ仏堂の前]
滿地槐花滿樹蝉 [満地の槐花 満樹の蝉]
大抵四時心総苦 [大抵四時 心総て苦しきも]
就中腸斷是秋天 [就中腸断つは是れ秋天]
夕暮れに独り仏堂の前に佇むと、エンジュの白い花が地面いっぱいに散り敷き、木々に蝉が鳴きしきっています。「四季それぞれ悲しいものだが、とりわけ腸が断ち切れるほど悲しいのは、秋だ」。