正岡子規「子規(ほととぎす)を聞く」
漢詩は学ぶほどにその魅力にとりつかれ、味わい深くなります。
毎回何首かの詩を取り上げ、奥深く豊かな詩の世界を少しだけ解きほぐしてみたいと思います。
出来る限りテレビやラジオの演目に合わせて詩を選びますので、吟詠の一助にお読みいただければ幸いです。
ときには和歌も取り上げたいと思います。
ホトトギスは初夏を告げる鳥として親しまれ、「目には青葉山ほととぎすはつがつを」(素堂)と詠まれてもいます。初ものが好きな江戸っこは、人よりも先に初鰹を食べようと競い、女房を質に入れてまで初鰹を食べたなどとも言われています。ホトトギスも、その初音を誰よりも早く聞くことを競いました。聞かなければ恥だ、と思っていたようで、江戸川柳に「時ほとと鳥ぎ す聞かぬと言えば恥のよう」とあります。
新緑によく透る澄んだ声で鳴くホトトギスですが、漢詩の世界では私たちの常識は通用しません。血を吐きながら鳴く、奇怪な鳥です。正岡子規の漢詩は、その中国での伝統をきちんと踏まえて詠っています。
聞子規[子規を聞く]
一聲孤月下 [一声 孤月の下]
啼血不堪聞 [血に啼いて聞くに堪たえず]
半夜空欹枕 [半夜 空しく枕を欹つ]
古郷万里雲 [ 古郷 万里の雲]
「一声」の「イツ」でハッと驚いた感じがでます。「孤月」は一つポツンと空に懸かる満月。「一」と「孤」で孤独感が強調されます。第二句の「血に啼く」は血を吐いて鳴くという意味ですが、本当に血を吐くわけではありません。鳴き声が鋭いのでこう言います。鳴いて口を開けたとき真っ赤な舌が見えるからという説もあります。
ホトトギスの場合「啼」「鳴」の他に、「叫」とか「裂帛」= 帛を裂く、などと表現することもあります。ホトトギスが鳴くころ、ちょうどツツジ(躑躅)が咲きますので、ツツジが紅いのはホトトギスの血で染められたからだと言われてきました。
ホトトギスは、中国の蜀の国(四川省)の鳥で「蜀鳥」とも言います。漢字での表記は「子規」のほかに「蜀魂」「杜鵑」「杜宇」「望帝」「不如帰」「郭公」「時島」などがあります。伝説では、むかし杜宇という人が蜀の国を治めて望帝と号し、亡くなると子規に姿をかえた、といいます。
またある伝説では、望帝が臣下に治水を命じておきながら、その妻と通じたため不徳を恥じて国を逃れ、死ぬと子規に姿をかえて「不如帰」と鳴いた、といいます。
「不如帰」は、鳴き声をそれに似た言葉に置き換えた「聞きなし」といわれるもので、日本では「テッペンカケタカ」「特許許可局」と言います。
「不如帰」は「帰るに如しかず」=「かえりたい」「かえろうよ」という意味。ホトトギスは望郷の思いをかきたてる鳥として、盛唐以後さかんに詠われるようになります。
この詩は明治十一年(一八七八)正岡子規十一歳のときの作品です。「子規」という題にしたがって作ったもので、実際に故郷を離れていたわけではありません。月下に鳴くホトトギス、その声を聞いて望郷の思いに枕を涙で濡らすという、典型的な「ホトトギス」の詩です。十一歳でこのような詩ができるとは、さすがです。
正岡子規は、本名は常規、のちに升のぼると言いました。子規は号で、明治二十二年から用いられました。理由は、病のため「ホトトギスのように血を吐いた」からです。十一歳の少年が「血に啼く」子規を詠い、十一年後に血を吐いて「子規」と号することになろうとは、なんとも皮肉な運命です。子規は二十九歳から病床生活に入り、三十三歳のとき
ホトヽギス鳴クニ首アゲガラス戸ノ
外と の面も ヲ見レバヨキ月夜ナリ
と詠います。当時ガラス戸は高価でしたが、動けない子規のためにせめて外の景色が見られるようにと、弟子の高浜虚子らが計らってくれたのでした。
『万葉集』や和歌・俳句にもホトトギスが多く詠われます。これについては別の機会に触れたいと思います。それにしても、日本ではホトトギスを聞くと喜ぶのに中国で悲しむのはなぜでしょうか。
江戸時代の頼山陽(一七八〇~一八三二)がその理由を詩で詠っていますが、これもまたいずれ。