李白「山中問答」
漢詩は学ぶほどにその魅力にとりつかれ、味わい深くなります。
毎回何首かの詩を取り上げ、奥深く豊かな詩の世界を少しだけ解きほぐしてみたいと思います。
出来る限りテレビやラジオの演目に合わせて詩を選びますので、吟詠の一助にお読みいただければ幸いです。
ときには和歌も取り上げたいと思います。
今回は李白(七〇一~七六二)の「山中問答」です。
問余何意棲碧山 [余に問う何の意あってか碧山に棲むと]
笑而不答心自閑 [笑って答えず 心自ら閑なり]
桃花流水杳然去 [ 桃花流水杳然として去る]
別有天地非人間 [別に天地の人間に非ざる有り]
「杳然」は、深く遠いさまです。「人間」は「ジンカン」と読み、人の世、世間、をいいます。詩で「人間」というと、俗人の棲む世間です。第四句の「別に天地の人間に非ざる有り」は、別に天地が有る、その天地は俗人の天地とは異なる、ということです。そこで
俗世間と異なる別天地がある、などと訳されます。今日よく使う「別天地」の出典です。
ところで、どうして「非人間」、俗世間と異なる、と言うのでしょうか。そのヒントは第一句目の「碧山」にあります。碧山は、青々と木々の繁る美しい山のことです。同じ意味で「青せ い山ざ ん」という言葉もあります。が、「碧山」と「青山」は、微妙にニュアンスが違います。「青山」は、身近にあって親しみやすい青々とした山です。が「碧山」は、俗人を拒絶する青々とした山です。もうお分かりでしょう、第一句の「余に問ふ何の意あってか碧山に棲むと」は、俗人が私に、どんなつもりでこんな奥深い山に棲んでいるのか、と質問したのです。俗人が棲むことのできない碧山に棲んでいるので、その真意を私に質問したのです。しかし私は「笑って答えず」、笑っているだけです。そして「心自ら閑なり」と、心は自ら穏やかです。
もとより俗人に説明したところで理解はされませんし、心は俗世からはなれていますから、笑うしかないのです。
私は笑って何も答えませんが、詩ではちゃんとその答えを後半で言います。
桃花流水杳然去 [桃花流水杳然として去る]
別有天地非人間 [別に天地の人間に非ざる有り]
桃の花びらを浮かべた清らかな水が深々と遠くへと流れて行く、ここに俗世間と異なる別の天地があるのだ、と。桃の花はたしかにきれいですが、でもなぜ桃の花なのでしょうか。
李白は唐の時代の人ですが、時代を三百年ほど遡さかのぼった晋の時代に、日本人が大好きな詩人の一人、陶淵明(三六五~四二七)がいました。役人生活がいやになってきっぱり役人をやめ田舎で悠々
自適した、といわれる人です。本当はちょっと違うのですが・・・。
酒と菊が大好きで、絃のない琴(無絃琴)を弾いていた、ということでも知られる隠者です。その陶淵明に、よく知られる「菊を采る東籬の下/悠然として南山を見る」の句のある「飲酒」と題する詩があります。その詩で自問自答の形で、
問君何能爾 [君に問う 何ぞ能く爾るやと]
心遠地自偏 [心遠ければ 地自から偏なり]
という句があり、また最後に、
欲辯已忘言 [弁ぜんと欲すれば已に言を忘る]
とあります。李白の詩の前半の問答形式と「笑って答えず心自ずから閑なり」は、陶淵明の詩が下敷きになっているのです。
陶淵明には、また「桃源郷」の語の出典の「桃花源の記」という文章があります。桃の林を抜けたところに山があり、その山の向こうに理想郷があった、という話です。李白が水に浮かんで流れていく桃の花びらを詠ったのは、やはり陶淵明からの影響です。
李白の「山中問答」は、陶淵明の境地を踏まえながら、むずかしいことばを用いず、心清らかな人の棲む、美しい世界を詠っています。青々とした山あいを、清らかな水が桃色の花びらを浮かべて遠くへと流れていく風景は、何と心が落ち着くことでしょう。
「心自ずから閑なり」という気持ちがよくわかります。