公益財団法人 日本吟剣詩舞振興会
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漢詩を紐解く! 2024年12月




正岡子規まさおかしき舟八島ふねやしまぐ」


 一の谷の戦いに敗れた平家は、船で屋島に逃れます。そこへ義経が直属の部下とわずかな軍勢をひきいて五艘の船で迫ります。軍勢が少なかったのは、軍目付梶原景時かじわらかげときと作戦上で行き違いがあり、軍の大半が景時に配慮したからです。また、激しい嵐だったこともあります。義経は嵐の中で船頭たちに船を出さなければ射殺すと脅して出発し、灯りは義経の船につけただけでした。上陸後も強行軍で一気に進み、平家の陣を奇襲します。



 平家は船に逃れますが、源氏の古兵後藤兵衛実基ふるつわものごとうびょうえさねとものとっさの判断で平家の陣に火をつけて焼き尽くします。平家は沖の大船から小舟を波うち際に漕ぎ寄せ、浜辺に盾を並べてその陰から矢で反撃します。


 平家の中で最も勇猛を謳われた能登守教経のりつねが矢を射かけると源氏の兵が次々と倒れます。すると佐藤継信つぎのぶが義経の前に馬を進めて身をもって主君をかばい、矢を受けて最期を遂げます。義経はその日の戦いをやめ、寺に供養を頼み自分の馬を与えました(巻十一「継信最期」)。


 二月十八日、沖の平家の軍船から一艘の小舟が漕ぎ出されます。舳先には美しい上臈が乗っていて、扇をあげて舳先に立てた日の丸を射よという仕草をします。源氏はあれこれ人選し、那須与一なすのよいちを射手に指名します。与一はそのとき一八・九歳、一旦は断りますが、受けることになります。


 おりふし風が吹いて舟は波に揺られて上下に動き、扇はひらひら動いています。与一はしばらく天を仰いで祈念します。


南無帰命頂礼なむきみょうちょうらい御方みかたを守らせおはします正八幡大菩薩しょうはちまんだいぼさつ、別してわが国の神明しんめい日光権現にっこうごんげん、宇都宮、那須の湯泉大明神ゆぜんだいみょうじん、願はくはあの扇のまん中射させてばせ給へ。これを射損ずるほどならば、弓切り折り(弓をへし折って)、海に沈み、大龍の眷属けんぞくとなって長く武士の仇とならんずるなり。弓矢の名をあげ、いま一度本国へ迎へんとおぼしめされ候はば、扇のまん中射させて賜り候へ。


 と、目を開いて見ると、風が少し鎮まっています。与一はかぶらを取ってつがえ、ギュッと引き絞り、しばし静止して放つと、矢は扇のかなめより一寸ばかり上をヒョウと射切り、扇はこらえられず三つに裂け、空へあがり、風にひともみもまれて海に散り、くれないに金色の日輪を描いた扇が夕陽に輝きながら、白波の上に浮いたり沈んだりします。固唾を飲んで見守っていた沖の平家は船ばたをたたいてほめそやし、陸では源氏がえびらをたたいてどよめきます。


 若武者がたった独りで、敵と味方の視線を一身に浴び、死を覚悟して矢を射るという、手に汗を握る『平家物語』屈指の名場面です。重責を一身に受けた与一の緊張はいかばかりであったでしょうか。その心境を思いやって、松尾芭蕉は『おくの細道』で次のように云います。


黒羽くろばね館代浄法寺何某かんだいじょうぼうじなにがしかたにおとづる。……それより八幡宮に詣づ。与一、扇の的を射し時、「別してはわが国の氏神、正八幡」と誓ひしも、この神社にてはべると聞けば、感応殊かんおうことにしきりに覚えらる。


 正岡子規は、舟で屋島を通り過ぎたとき漢詩にその感懐を詠いました。


萬里吹來破浪風[万里吹き来たる破浪の風]
追思往事已成空[往事を追思すれば已にくうと成る]
靑山一帶人不見[青山一帯人見えず]
唯有淡濃烟霧籠ただ淡濃烟霧のむる有り]


 〈舟で屋島を行き過ぎようとすると、強風が波を吹きちぎらんばかりに遥か彼方から吹き寄せて来る。源平が激しいいくさを繰り広げた昔の事は、いまはすべてがくうとなり跡形もない。青々とした屋島の一帯には人の姿は見えない。ただ濃く淡く靄が立ち籠めているばかりだ。〉


 源平の戦いでは、源氏が白旗を、平家が紅旗を目印としました。強風で波立つ白波は、まるで源氏が押し寄せるかのようで、荒れ狂う波は逃げまどう平家のようです。往事を追思してふと我に返ると、ただ茫々と広がる海が見えるだけ。そしてすべてが遠い歴史の彼方に溶け込むかのように、屋島には靄が立ち籠めています。