〈説明〉
深呼吸をするとき、ラジオ体操のように両手を大きく開いて深呼吸をする人は少ないです。また、街を歩くとき両手を大きく振り膝を高く上げて歩く人も少ないでしょう。つまりラジオ体操は普段の動きを練習しているわけではなく、普段の動きに十分な余裕を待たせるための体操なのです。体操により筋力を鍛え柔軟性を養うことによって、転倒防止や血流の正常化などが期待されるわけで、決して体操と同じ動きをすることが目的ではありません。しかし、体操の効果を十分なものにする為には、日常の動きと同じようなことを繰り返しても体操の効果は期待できません。日常の動きではありえないほど十分に延ばし、十分に深く曲げることによって、日常の動きに余裕ができるのです。
ご質問の母音発声練習も同じ理由です。練習の時に口の形をはっきりと区別することで曖昧な母音を使うことが防げるのです。
曖昧母音はほとんどの人が使っています。と言う前に、実はどれが曖昧母音なのか特定できないのです。その前に、そもそも日本語の母音の基準というものが無いのです。長さや重さには「原器」というものがあって世界中がこれを基準にしています。時間も「原子周波数標準器」を基準に「1秒」をきめています。しかし発音に「原器」はありません。つまりこれが日本語における正しい「ウ」だという「基準音」は無いのです。
日本語の母音の種類は現在「アイウエオ」の5種類ですが昔はもっと多くの母音が使われていました。現在でもそれぞれの地域でお年寄りが無意識のうちに多くの母音を使っています。特徴の強い方言を聞き取りにくいのはそのせいもあり、カナで書き取りにくいのはその音を表す文字が無いからです。
英語の発音を日本語のカナに書き表そうとするとき「ア」と書くしかない音が3種類あります。同じように「ウ」は2種類、「イ」も2種類有ります。英語の場合、主な母音だけでも16種類あるそうです。日本語の場合、古代から使われてきた母音は今より多くの種類があったようですが、時代が下るにしたがって使われる母音の種類が減る傾向にあるそうです(金田一春彦先生談)。近年、オとヲの発音の区別がなくなったのもその一つです。私より12歳年上の習字の先生は「をとめ」と「おとめ」を言い分けていらっしゃいましたが私には違いが分かりませんでした。
現代の日本語の母音の種類がいかに少ないかがお分かりいただけたと思います。英語と日本語の母音を重ね合わせて比べることは無意味とも思えますが、仮に英語の母音16種類のうち、5種類が日本語の「アイウエオ」に合致していたとしましても残りの11種類の母音は、日本人にとっては全て「曖昧母音」と認識されるわけです。英語だけでなく、フランス語・ドイツ語・中国語などを考えてみると、日本語から見た「曖昧母音」は50種類を下らないでしょう。
以前、講習会の為に6・7人の母音を集めて聞き比べられるように編集して「ア」だけを集めた吟の節、「エ」だけの吟の節、「イ」だけの…と5母音全てを受講生に聞いてもらいました。何の母音であるかを全員一致で正解したのは「ア」だけでした。その他の母音は聞く人によって答えは異なりました。これはむりのないことで、発声している人が7人だと7種類の「ウ」、7種類の「エ」が聞こえてくるのですから判断に迷うのが普通です。回答が著しく別れたのが「オ」でした。回答は「ウ」「オ」「ア」の3つに別れましたが一番多かったのは「ア」でした。一人の人の吟を聞いて「オ」を「ア」と聞き間違えることは無いのですが、複数の人の「オ」を聞き比べると違いが大きいので迷ったのです。
母音の発声で口(口腔)の形をはっきり区別する練習は、誰が聞いても聞き間違わない発音を身に着ける為に必要なことです。しかし人の話し言葉は感情によって発音が変わります。つまり「曖昧母音」を使っているのです。吟じる時も詩情を表現するべく発音が変わることは多々あります。その時には発声練習の時の口腔の形とは違う形になることは仕方がないことなのです。発声が話し言葉から遠ざかるほど詩心は伝わらなくなります。かといって全くの話し言葉では吟にも音楽にもなりません。詩心表現に集中しても、話し言葉で吟じても共通の母音から大きく外れない為に母音の練習をするのです。
貴方がご自身で結論付けた通り、口の動きを控えめにしても上手に聞こえるわけではありません。詩心に集中した結果がそうなったということです。命題は正しいです。
※こちらの質問は『吟と舞』2020年11月号に寄せられたものです