公益財団法人 日本吟剣詩舞振興会
Nippon Ginkenshibu Foundation
News
English Menu
吟詠音楽の基礎知識 2024年10月






〈説明〉

目を閉じて、頭より高い位置で両手の人差し指の先端を合わせてみてください。この時ついうっかり目を開けたまま指を合わせてしまった方は、その後目を閉じて試しても実験になりませんので、時間をおいてから目を閉じてやり直してください。

 これは何の実験かと言いますと、目を閉じても両手の指先を正確に合わせられるかどうかという実験です。たいていの場合5ミリか10ミリ位ずれてしまいます。目を開いて指先を合わせた後、もう一度目を閉じて試してみますと、ほとんどの方が指先を正確に合わせることが出来ると思います。

 いったん指先を合わせると目を閉じても指先を合わせられるようになるのは、腕の筋肉が位置を合わせるための緊張度を覚えているからです。人間も他の哺乳類も生まれつきから、目を閉じて両手の指先を合わせられるようにはできていません。このような動作は後から備わる能力です。生まれて間もない赤ちゃんが、欲しいものに手を伸ばすとき、手がユラユラと動きながら目的のものに到達するのは、腕の筋力が未発達のせいばかりでなく、手が目的の物に向かって伸びていくかどうかを目で確認しながらずれを修正するためにユラユラと揺れるのだという専門家の話を聞いたことがあります。大人になれば誰でも目的物を目視すれば瞬時にそれを手にすることが出来ますが、赤ちゃんには時間がかかるのです。

 指先を合わせる実験も、時間が経ってからもう一度試してみると、再び合わなくなりますが、それは普通です。また、時間がさほど経たなくても、片腕に重い物を持ち、1分位肩の高さに持ち上げていると、腕の感覚が変わってしまい、もはや目を閉じて指先を合わせることは難しくなってしまうのです。筋肉が指先の位置を覚えているかどうかは状況により変わってしまうことで、当てにはならないのです。

 ここまで延々と指先を合わせる話をしてきましたが、このことは吟じ出しの音程を正確に発声することと同じ説明だと思ってください。

 テーブルの上にコーヒーカップがあることを目で見て分かっているつもりでも、手を伸ばしてみないとコーヒーカップをつかめるかどうかは分かりません。目で見ながら手を伸ばすからずれを修正(自動制御)してカップをつかめるのです。同じように頭の中で目的の音程が鳴っていても、その音程の声が出るかどうかは声を出すまで誰にも分らないことなのです。

 吟詠の伴奏が聞こえてきたとき、よく聞いていれば同じ音程の声が出ると思ったらそれは間違いです。まだコーヒーカップを見つめているだけなのですから、手に取ることが出来るとは限らないのです。つまり目的の音程で発声するためには、声を出してから頭の中の音程と実際の声の音程を比較して、高すぎれば声を低くするように、低すぎれば声を高くするように声帯の筋肉に命令を出し、音程を修正するのです。この修正に要する時間は経験の深さ・長さによって人それぞれです。

 ベテランと言われる人で1/100秒前後、未熟な人ですと1/10秒かそれ以上かかります。1/10秒って短いと思いますか?「今日は雨なので傘を持って行きます」と言うのに要する時間は2・3秒です。つまり1音節1/9秒余りです。1音節分迷いが有ったら誰が聞いても耳に引っかかってしまいます。ましてやコンクールでは聞き逃してくれるはずありません。なぜなら、審査員は「吟じ出しは失敗するはず!と信じて待っているのですから! 調和審査員の私が申し上げています。

 いったん目を開けて指先を合わせれば、次の瞬間は目を閉じても指先を正確に合わせることが出来ると説明しました。同じように、吟じ出しの直前に自分の声を聞き、伴奏の音程と合わせておけば、全く音程の狂い無しで吟じ出すことが出来るのです。声帯の筋肉がまだ覚えているからです。発声練習の部屋で30分も練習したから声帯の筋肉が覚えていると思わない方が賢明です。コンクールの場合に限らず、舞台の袖で待たされるときは5〜10分間声を出せない時間が続きます。まして、前のかたが自分とは違う本数の時など、頭に音程が残っていても全く役にたちません。とにかく直前に自分の声を聞くことが重要なのです。

 舞台袖から中央に向かって歩くときにはたいていの場合伴奏曲が始まっています。歩きながら声を出す習慣をつけましょう。前奏曲と全く同じでなくても構わないのです。音を聞きながら自分の声も聴くことがだいじなのです。

 この習慣が身につくと、吟じ出しの音程が良くなることの他にさらなる利点があるのです。

 それは精神的な安定です。吟じ出しに不安を感じている方は多いと思います。不安の原因はいろいろあると思いますが、少なくとも吟じ出しの音程に関する不安がなくなっただけでも、精神的余裕はかなり大きくなるはずです。余裕ができると音程だけでなく、発声そのものが安定するため、練習の時と同じくらいの力強い声が発せられるようになるのです。

 教室では上手なのに本番になると実力が出せないという方がとても多いです。しかも真剣に取り組んでいらっしゃる方に限って実力が出せないという状況をたくさん見てきました。もったいないことです。

歩きながら声を出しましょう!

 

 ※こちらの質問は『吟と舞』2020年9月号に寄せられたものです