公益財団法人 日本吟剣詩舞振興会
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漢詩を紐解く! 2024年10月




松口月城まつぐちげつじょう青葉あおばふえ

「青葉の笛」は『平家物語』の哀しい物語に基づいています。



平清盛たいらのきよもりの死後、勢いを得た源氏方の木曽義仲きそよしなか(義経の従兄弟)が北陸から京の都に迫ると、平家は幼い安徳天皇と三種の神器を擁して都を脱出し、義仲と義経の源氏どうしが戦っている間に、一の谷(現在の神戸市須磨区)に城郭を構えて再起を図ります。


 寿永三年二月七日(一一八四年三月二十日)、義経は義仲を破ると一の谷へ軍勢を進めます。正面から兄の範頼のりよりが攻撃し、義経は搦手からめてすなわち側面から攻撃をしかけます。一の谷の城郭の背後は三十丈の懸崖、十五丈の絶壁、そこから攻めてくるはずはないと平家の警護は手薄でした。義経は、鹿が越せるなら同じ四つ足の馬も越せるはずと、卯の刻(午前六時頃)断崖を馬で攻め下り、一騎当千の勇士もそれにつづきます。有名な鵯越ひよどりごえ逆落さかおとしです。この奇襲が功を奏して、平家の軍は敗走し、須磨の浦に浮かべた船に乗って屋島へと落ちのびて行きます。


 この戦いで、平家の公達きんだち忠度ただのり知章ともあきら敦盛あつもりを始め十人討ち死にします。それぞれの逸話が語られるなかで、「笛」は「敦盛最期」のくだりに出てきます。


熊谷次郎直実くまがいじろうなおざねが手柄を立てようと待っていると、豪華な模様の着物に薄緑色のよろいを着け、黄金色の太刀を差した武者が、白馬に乗って沖の船に向かっています。敵に背中を見せるとは臆病者と、直実が扇を挙げて招くと、武者がとって返してきます。渚に上がるところを、こまかしらを向けなおすが早いか、直実は組み伏せて左右の膝で鎧の袖をむずと押さえて「首をかん」とかぶとを取ります。見れば自分の息子小次郎と同じ年ごろ。薄化粧に鉄漿おはぐろをしています。


 これは侍ではない、平家の公達だ。自分が息子を思うようにこの子の父親も心配しているだろう、気の毒だ。「名のらせ給へ。助けまゐらせん」と申すと、「なんぢはいかなる者ぞ」と問い返します。直実が名のると、「なんぢがためにはよいかたきごさんなれ。なんぢに合うては名のるまじきぞ。首実検くびじっけんのあらんとき、やすく知られんずるぞ。急ぎ首を取れ」と言います。


 直実は、あっぱれなことだ、今討たなくても、源氏が負けることはない、お助け申したい、と言います。が、後ろを見ると味方の兵が迫って来ています。いま私がお助けしても、あなたは逃れることなく討たれてしまうでしょう。ならば私が討って、死後のご供養をいたしましょう、と首を切ったのでした。


 首を包もうとして鎧直垂よろいひたたれをといてみると、笛が錦の袋に入っています。直実はこれを見て、「いとほしや。今朝けさじょうのうちに管弦し給ひしは、この君にてましましけるにこそ。何としても、上臈じょうろうは優にやさしかりけるものを」と哀しみます。この若者が敦盛で、生年十七歳、笛は鳥羽の院より賜った「小枝こえだ」という名品でした。


 子を思う親の情愛と若い命を取らなければならない哀しさ、敦盛の優雅と風流、矜持と潔い最期。『平家物語』屈指の名場面です。


一谷軍營遂不支いちたに軍営遂ぐんえいついささえず]
平家末路使人悲平家へいけ末路人まつろひとをしてかなしましむ]
戰雲收處有殘月戦雲収せんうんおさまる処残月有ところざんげつあり]
塞上笛哀吹者誰塞上笛さいじょうふえかなふきものたれぞ]

 〈一の谷の合戦で平家の軍勢は源氏に押されて、けっきょく支えきれずに敗走してしまった。平家の末路を思うと人々を悲しませないではおかない。戦いが終わったとき明けの空には残月がかかっていた。早暁、平家の陣営から哀調を帯びた笛の音が聞こえていたが、いったい誰が吹いていたのだろうか。(まさしく敦盛が吹いていたのだ。)〉


 転句の「残月」は『平家物語』にはありません。文部省唱歌(明治十九年・一九〇六)の 「青葉の笛」では「一の谷のいくさ破れ/討たれし平家の公達あわれ/暁寒き須磨の嵐に/聞こえしはこれか青葉の笛」とあります。「青葉の笛」という言い方は、芸能から出た伝承とされています。


 松口月城(一八八七~一九八一)は福岡県那珂川の人。開業医として医療に従事するかたわら、吟詠漢詩家として活躍し、書道や南画にも多彩な才能を発揮しました。