柳宗元「江雪」
「江雪」は、動く物も音もなく、ただ雪だけがしんしんと降るなか、一そうの小舟に乗ってじっと釣り糸を垂れる老人が描かれています。元和二年(八〇七)柳宗元三十五歳、永州での作と推定されます。
千山鳥飛絶[千山鳥飛ぶこと絶え]
萬徑人蹤滅[万径人蹤滅す]
孤舟蓑笠翁[孤舟蓑笠の翁]
獨釣寒江雪[独り釣る寒江の雪]
〈山という山には飛ぶ鳥の姿が絶え、道という道には人の足跡が消えてしまった。一そうの小舟を浮かべて、蓑と笠をつけた老人が、雪の降りしきる寒々とした川で釣り糸を垂れている。〉
前半は対句です。押韻は「絶」「滅」「雪」と、つまる発音の漢字が使われています。原文を眺めていると、前半の句頭の「千万」、脚韻を踏んでいる「絶滅」、そして後半の句頭の「孤独」という熟語が浮かびあがってきます。前半は、「千万」のすべてのものが「絶滅」してしまった〈無〉の世界です。その中で小舟に乗った老人が「孤独」に耐えながら凛として釣り糸を垂れています。作者はなぜこのような寒々とした孤独な詩を詠ったのでしょうか。
柳宗元は、代宗の大暦八年(七七三)に生まれています。官吏登用試験の科挙に及第したのは、徳宗の貞元九年(七九三)二十一歳の時でした。大暦十四年(七七九)五月、代宗が崩御すると徳宗が即位します。徳宗は佞臣をかたわらに侍らせ、民衆から過酷な税を取り立てました。宮中に必要な物資を買い上げる「宮市」を宦官が代行するようになると、宦官は値段通りに金を支払わなかったり、民間から安く買い上げたものを高く売りさばいて私腹を肥やすようになりました。
こうした悪弊を改革しようと王伾 ・王叔文らの若手官僚が、英邁のうわさの高い皇太子、のちの順宗のもとに集まります。二王は、名門の出身でもなく、科挙にも及第していませんでしたが、旧官僚派と新官僚派の間隙をぬって順宗の親任を得てゆきます。ひそかに改革案を練り、改革のあかつきには誰がどのポストに就くかという構想まで立てました。
ところが、貞元二十年(八〇四)九月、皇太子は中風にかかり、口がきけなくなります。翌年の一月二十三日、徳宗が崩御。宮中では皇太子の長男、のちの憲宗を即位させようという動きもありましたが、皇太子がそのまま即位して順宗となります。年号も永貞と改められます。改革派は政権を握るとさっそく改革に取り組み、宮市を廃止したり宮女を開放したりします。
しかし、改革は、近衛師団の実権を握れなかったこともあり、守旧勢力の巻き返にあって短期間で収束します。順宗は上皇に退き、憲宗が即位すると、王伾と王叔文は事実上の死罪、改革の中心にいた八人の官僚は政治犯が与えられる「司馬」の官となって遠地に左遷されました。これを「八司馬の貶」と呼び、一連の政変を「永貞の変」と言います。
柳宗元は、この八司馬の一人でした。科挙及第後、集賢殿書院正字 、藍田尉、監察御史裏行を経て、貞元二十一年・永貞元年(八〇五)三十三歳、尚書礼部員外郎となり、王叔文一党の一員として順宗のもとで政治改革に邁進しました。が、政権が変ると、永州司馬に貶されます。のち四十三歳正月、憲宗の詔によっていったん長安に戻りますが、三月には改めて柳州刺史に貶謫され、四十七歳任地で亡くなります。
「江雪」には、理想の政治を目指しながらもあえなく挫折した深い絶望と悲しみ、そして孤独、それでも凛として生きようという作者の「おもい」が込められているのです。詩の孤寂枯淡の趣きは、後に「寒江独釣」の画題のもと、多くの絵が描かれるようになります。
柳宗元と同年代の文人に、一つ年上の白居易(字楽天、七七二~八四六)がいます。科挙の及第は貞元十六年(八〇〇)で、柳宗元より七年遅かったのですが、それが幸いして大きな政争に巻き込まれることはありませんでした。