佐藤一斎「佳賓好主」
梅を詠う詩は数多くありますが、この詩は、春の夕べの「一刻」の花と月を香り高く上品に詠います。
佳賓好主 佳賓好主
月訪梅花爲好主[月は梅花を訪うて好主と為し]
梅邀月影作佳賓[梅は月影を邀えて佳賓と作す]
佳賓好主兩雙絶[佳賓好主両つながら双絶]
管領黃昏一刻春[管領す黄昏一刻の春]
〈月は満開の梅の花をたずねて来て、梅をよい主人とし、梅は月影を迎えて、月をよい賓客としている。咲き匂う梅の花の主人と、明るく照らす月影の賓客と、好一対のすばらしい風景。月と花は、春のたそがれの一刻を我がものとしている。〉
月影は「つきかげ」とも読みますが、「影」は光の意です。「星影」も「ほしかげ」と読みますが、星の光をいいます。「影」のもともとの意味は光で、李白の「峨眉山月の歌」にいう「影」もそうです。
峨眉山月半輪秋[峨眉山月半輪の秋]
影入平羌江水流[影は平羌江水に入って流る]
「双絶」は二つの優れたものをいいます。「管領」は自分のものにすること。「黃昏」はたそがれ。夕方のうすぐらい時刻。「一刻」は一昼夜の百分の一の時間、約十五分です。「黄昏一刻の春」ですから、春の夕暮れの十五分ほどの時間です。わざわざ「一刻」と限定するのは、空がうっすら紅く染まっているのが、ちょうどそれくらいだからでしょう。それ以上時間が経つと、紅は消えてしまいます。空が紅なら、梅の花は白です。
薄紅色の空、梅の花の甘い香りが漂うなか、月がゆっくり上ってきて、白い花を照らし出します。うっとりする美しい風景です。黃昏の一刻を梅と月が「管領」しているというのも頷けます。上ってくる月を「訪ねてくる賓客」と言い、花を「迎える主人」という表現も洒落ています。
結句は、二つの詩を意識しています。一つは蘇東坡の「春夜」です。
春宵一刻直千金[春宵一刻直千金]
花有淸香月有陰[花に清香有り月に陰有り]
歌管樓臺聲細細[歌管楼台声細細
鞦韆院落夜沈沈[鞦韆院落夜沈沈
春の夜の一刻は千金にも値する貴重なものだから、徹夜してでも遊べばいいのに、庭はひっそりしている、といいます。「陰」は月の周りのくもり。朧の月であることをいいます。
もう一つの詩は、林和靖
疎影橫斜水淸淺[疎影横斜
暗香浮動月黃昏[暗香浮動
流れる水にまばらな枝の姿が斜めに映り、月のさし上るたそがれ時に、どこからともなくほのかに梅の香りが漂ってきます。「疎影」の「影」は姿の意。「暗香」はどこからともなく漂ってくるほのかな香りです。この句から、梅を「疎影」、梅の香りを「暗香」というようになりました。
春の夕べ、月と梅。時間帯・素材は、林和靖と佐藤一斎は同じですが、先人の詩句を踏まえながら、花を「好主」、月を「佳賓」といい、「黄昏の一刻」をとらえたところに、一斎のセンスが光ります。
菅原道真
月夜見梅華 菅原道真
月耀如晴雪[月耀
梅花似照星[梅花は照星
可憐金鏡轉[憐れむべし金鏡
庭上玉房馨[庭上玉房馨
〈輝く月の光は晴れた日の雪のように白く清らかに、月下の梅の花はまるで照る星のようだ。ああ、鏡のような丸い月が移動するなか、庭園の梅の花はいつまでもよい香りを放っている。〉
夜の梅の香りを詠う詩は、中国の六朝
道真は白楽天の詩をよく学んでいました。この詩は、道真十一歳の作といいますから、驚きです。のちに道真は、日本独特の風情を漢詩に詠うようになり、新たな日本漢詩の世界が拓けていきます。作詩の伝統は脈々と後世に受け継がれ、江戸の儒学者佐藤一斎が、この上品な春宵一刻の詩を作ったのでした。