張継「楓橋夜泊」
楓橋は、江蘇省蘇州の郊外、寒山寺の門前を流れる楓江が、京杭大運河と合流する所にあります。その楓橋のあたりで、夜、船中にとまったときの詩です。
楓橋夜泊 楓橋夜泊
月落烏啼霜滿天[月落ち烏啼いて霜天に満つ]
江楓漁火對愁眠[江楓漁火愁眠に対す]
姑蘇城外寒山寺[姑蘇城外の寒山寺]
夜半鐘聲到客船[夜半の鐘声客船に到る]
〈月が沈み烏が啼き、冷たい気が天に満ちている。岸の楓や漁火が、旅の愁いで眠れない目にチラチラ映る。もう夜が明けたのかと思っていると、姑蘇城外の寒山寺から夜半を告げる鐘の音が船にまで響いてきた。〉
起句は、寒々として月もない暗いなか、烏が啼くわびしい情景です。承句は、漁火が赤くチラチラひかり、光が当たったところだけモミジが見えます。眠れずにうつらうつらとしている旅人、旅愁がいやがうえにも増します。
ここまでは、視覚と聴覚と触覚にうったえて旅愁を詠います。後半は、寺から響いてくる夜半を告げる鐘の音によって、いっそう旅愁をかきたてます。「寒」の一字が心理情態も表し、絶妙です。
結句は「夜半」とありますから、夜半の実景だと思いますが、実は他の句もふくめて様々な解釈があります。分類整理すると次のようになります。
Ⅰ 起句は明け方の実景、承句以下は昨夜来の情景を思い出している。
Ⅱ 起句から結句まですべて明け方の情景。
Ⅲ 起句から結句まですべて夜半の情景。
①起句の情景を見聞きして夜明けかと思ったが、承句以下の情景から夜半だったのかとあらためて思った。
②起句から結句まで夜半の実景を時間の経過に従って描いた。
Ⅳ 起句から転句は明け方の実景、結句は昨夜の夜半の記憶。
Ⅲ は、今日一般的に行われている解釈です。ⅠⅡⅣは、すべて起句を明け方の情景としています。これには理由があります。
漢詩では「月」と言ったら満月をさします。「月落」は満月が沈むので明け方、カラスが鳴くのも明け方、一日で最も寒くなるのも明け方、ですから起句は明け方の実景、となるのです。
そこで、承句以下をどう解釈するか、結句の「夜半」と、どう辻褄を合わせるかで右のような解釈が出てくるのです。
Ⅱは、結句を明け方とするのが他と違います。これは、うつらうつらとしていて、明けの鐘の音を、夜半の鐘と錯覚した、とするものです。Ⅳは、結句で、そういえば夜半に鐘がなったなあ、と思い出した、とするものです。
日本の五山の禅僧に面白い解釈があります。
「張継が船のなかで妓女とともに過ごしていたが、妓女が他の人の所に行こうと、月落ち烏啼いて霜天に満つ、明け方になったから、と暇を告げて帰って行った。ところが、その後で夜半を告げる鐘が鳴り、まだ夜半なのにまんまと騙されたと悔しがった」と(幻雲『三体詩幻雲抄』)。他の書には、騙されなかった、というのもあります。
橋は、もと「封橋」と言っていたのを、張継のこの詩が有名になって「楓橋」に改めたといいます。「江楓」も「江村」になっているものがあります。題名は、唐の高仲武の『中興間気集』には「夜泊松江( 夜松江に泊す)」とあります。松江は別の地の川です。現在の寒山寺は南宋初期まで「普明禅院」と呼ばれていました。つまり唐の時代に固有名詞としての「寒山寺」はなかった。そこで、転句は「姑蘇城外山寺寒」と読むのがよい、という説もあります。
写真1は、一九八七年、運河から撮った楓橋と鉄鈴関です。写真2は、二〇〇一年、写真1の反対側から撮った楓橋と鉄鈴関です。鉄鈴関が立派になっています。