杜甫「蜀相」
唐の玄宗皇帝の天宝十四(七五五)年、幽州(現在の北京のあたり)の節度使安禄山が謀反して長安を陥れました。
杜甫(七一二~七七〇)は賊軍に捕まり幽閉され、国都の荒廃を「国破れて山河在り、城春にして草木深し」(「春望」)と詠います(第26回参照)。やがて安禄山の乱は収束しますが、長安一帯が飢饉に見舞われ、杜甫は妻子を引き連れ、食糧を求めて西の国境沿いの秦州に行き、それでも食糧がないため慌ただしく南の同谷へ向かい、さらに南の成都へと移動しました。
成都では、幼馴染の厳武の援助により、郊外の浣花渓のほとりに草堂を築き、生涯で唯一穏やかな日々を過ごしました。
この頃の詩に「春夜雨を喜ぶ」「江亭」「江村」「客到る」などがあります。「蜀相」も浣花草堂時代の作品です。杜甫四十九歳です。
丞相祠堂何處尋[丞相の祠堂何の処ところにか尋ねん]
錦官城外柏森森[錦官城外柏森々]
映堦碧草自春色[堦に映ずる碧草自ら春色]
隔葉黃鸝空好音[葉を隔つる黄鸝空しく好音]
三顧頻繁天下計[三顧頻繁なり天下の計]]
兩朝開濟老臣心[両朝開済す老臣の心]
出師未捷身先死[出師未だ捷たざるに身先ず死し]
長使英雄涙滿襟[長えに英雄をして涙襟に満たしむ]
〈蜀の丞相諸葛孔明の廟はどこに尋ねたらよいのだろうか。
それは錦官城の郊外、コノテガシワがこんもり繁るあたり。階段に映る緑の葉は春らしく萌えたち、葉を隔ててウグイスがいたずらに好い声で鳴いている。
思えば、劉備は三度も礼を尽くして孔明を訪ね、天下統一の計を問い、出馬を懇請した。孔明はその誠意に感じて劉備とその子の劉禅の二朝に仕え、老臣としての真心を尽くした。蜀の危機を救おうと魏討伐の軍を進めたが、惜しいことに戦に勝つ前に陣中で亡くなり、永く後世の英雄たちに痛恨の涙を襟いっぱいに注がせることになった。〉
首聯は、孔明の廟はどこにあるか、と問いを発し、それは成都郊外にある、と答えます。
自問して立ち止まり、そしてまた歩みだすといった表現により、杜甫の孔明に対する敬慕の情が強調されます。第二句は、錦官城外・柏森森が響きあい、力強く荘重です。錦官城は成都をいいます。錦を掌る官が置かれたからです。柏は常緑樹のコノテガシワです。よく墓所に植えられます。
頷聯は、祠堂のようすです。杜甫が着目しているのは、階段に映じている春の柔らかな草と、葉陰で好い声で鳴くウグイスです。視覚と聴覚に訴え、春の暖かで穏やかな空気感をうまく表現しています。尊敬する孔明の処にやってきたという素直な喜びが溢れます。
頸聯は、諸葛孔明の出仕と、最期まで「忠誠」を貫いたことを詠います。孔明は、劉備の三顧の礼に心を動かされて劉備に仕えました。
「三国鼎立」の実現にむけ、赤壁の戦いをはじめ幾多の苦難をのりこえ、劉備・劉禅の二代にわたって「忠誠」を貫きます。
尾聯は、孔明が目的を達成する前に亡くなり、後世の英雄たちに痛恨の涙を流させることになったことを詠います。
「出師 」は軍を出すこと。孔明は、魏呉蜀の三国鼎立の一角を担う蜀が疲弊し、蜀が存続するか滅びるかという「危急存亡の秋」だ、だから自分を出陣させてほしいと、劉禅に「出師の表」を奏上します。
許されて孔明は魏を討つべく五丈原まで軍を進めますが、その陣営で病によって亡くなります。夢が叶わぬまま逝ってしまった忠誠の人に、後世の英雄が涙を流さないわけはありません。孔明の廟に詣でた杜甫も、ひそかに涙を流したことでしょう。
この詩は、四つある聯が起承転結の構成になっていて、中の頷聯と頸聯がそれぞれ綺麗な対句になっています。
前半は春のやわらかな景色を詠い、後半は激動の時代に生きた孔明の忠誠を詠います。現実の柔和な風景と歴史の過酷な風景とが対比されて、趣き深い詩的空間が創られています。七言律詩という新しい詩形を、杜甫は言語芸術の域にまで高めたと評されます。杜甫の誠実な心が均整のとれた美しい詩を磨き上げたのです。