菅原道真「門を出でず」「九月十日」
「秋思」の詩が作られたのは、西暦九〇〇年です。その三年前の八九七年、道真の長女の衍子が入内して宇多天皇の女御となっています。また八九九年には道真の正室島田宣来子が従五位に叙せられています。道真はこのころ顕栄の絶頂にありました。
九〇一年、道真は大宰府へ左遷されますが、そのときの「宣命」(前回一部紹介)には「天皇の廃立を計画し、父子の慈しみを離間し、兄弟の愛を裂こうとした」とありました。つまり、醍醐 天皇を廃し、弟の斉世親王を天皇に立てようと企てた、というのです。斉世親王は醍醐天皇の異母弟で、道真の娘を妻とし、道真が後見していました。それ故に、「専権の心があり」、権力を専らにしようと、「侫諂の情をもって前上皇を欺く」、宇多天皇に媚び諂い、栄達をはかって裏切った、というのです。
身に覚えがなくても、天皇の怒りに触れて大宰府に流された道真は、俗に榎寺といわれる浄妙寺で謹慎の生活を送ります。
不出門 門を出でず
一從謫落在柴荊[一たび謫落せられて柴荊に在りしより]
萬死兢兢跼蹐情[万死兢々たり跼蹐の情]
都府樓纔看瓦色[都府楼は纔かに瓦色を看]
觀音寺只聽鐘聲[観音寺は只鐘声を聴く]
中懷好逐孤雲去[中懐好し孤雲を逐うて去り]
此地雖身無檢繫[此の地身に検繋無しと雖も]
何爲寸歩出門行[何為れぞ寸歩も門を出でて行かん]
〈罪をこうむって柴の戸に暮らす身となってからは、万死にもあたる思いで、戦々兢々と、広い天地の間にも身の置き所がない気持ちで謹慎している。
大宰府の庁舎の高殿は木の間からわずかに瓦の色を仰ぎ見、近くの観音寺もただ朝夕の鐘の音を聴くだけである。
心の中では、一片の白雲が去るように浮き世のことは忘れ、外の物に対しては、満月が無心に物を照らし迎えるように円満な心もちである。この地では我が身を拘束するものは一切ないが、一歩たりとも門を出て行くことがあろうか、決してない。〉
天皇に命じられたわけでもないのに、道真は一歩も外に出ずひたすら謹慎しています。
秋の重陽節になると、昨年の九日後朝の宴で「秋思」の詩を作り、醍醐天皇に賞賛され御衣を賜ったことを思い出します。
九月十日 九月十日
去年今夜侍淸涼[去年の今夜清涼に侍す]
秋思詩篇獨斷腸[秋思の詩篇独り断腸]
恩賜御衣今在此[恩賜の御衣今此に在り]
捧持毎日拜餘香[捧持して毎日余香を拝す]
〈去年の今夜は清涼殿に侍り、他の臣たちとともに「秋思」の詩を作り、自分の詩だけが腸もちぎれんばかりの悲しい思いに溢れていた。そのとき賜った御衣はいまここにあり、日ごとに奉って移り香を拝し、天恩の厚きに感じ入っている。〉
質素な生活をし、家族を思いながら、道真は九〇三年、五十九歳で亡くなり、安楽寺に葬られました。
道真の死後、京の都では怪異な事件が次々と起こります。
九〇八年、左大臣藤原時平を助けて道真を左遷に追いやったとされる藤原菅根が死にます。翌九〇九年、時平が三十九歳の働き盛りで亡くなります。九二三年、皇太子保明親王(母は時平の妹穏子)が二十一歳で薨じます。九二五年、保明親王のあと皇太子となった慶頼王(母は時平の娘)が五歳で薨じます。九三〇年、清涼殿に雷が落ちて大納言藤原清貫が即死、右中弁平希世は顔を焼き、醍醐天皇は病に罹り、譲位ののち崩じます。
時平の子孫がみな夭死し、京のまちには疫病も流行りました。道真の怨霊の祟りだと騒がれ、九一九年大宰府に安楽寺天満宮が、九四七年京都に北野天満宮が建てられ、道真の怨霊が鎮められました。
学者として誠実な生涯を送った道真は、天神として祀られ、やがて学問の神、和歌の神、書道の神として広く信仰されます。
道真は死に臨み、大宰府で作った漢詩を集め、封緘して紀長谷雄のもとに送りました。それを見た長谷雄は天を仰いで嘆息しました。
「大臣の藻思は絶妙で、天下無双である」と。道真は、唐の白楽天を学び、中国の詩の模倣から脱して、漢詩を自らの思いを詠う日本の詩へと昇華させました。