菅原道真「秋思 の詩 」
菅原道真(八四五~九〇三)は昌泰二年(八九九) 右大臣に任じられました。学者出身の道真の昇進を快く思わない人が多くいたであろうことは容易に想像できます。道真は、その家柄でない者が大臣の職を汚しているのが苦痛である、と「右大臣を辞する表」(昌泰二年二月二十七日、三月四日、三月二十八日、昌泰三年二月六日)、「職封を減ぜんことを請う表」(昌泰二年十一月五日)を上りましたが、許されませんでした。そして昌泰三年(九〇〇)九月十日、重陽節の翌日の宴で天皇の勅題に応じて「秋思」の詩を作りました。
丞相度年幾樂思[丞相年を度って幾たびか楽思す]
今宵觸物自然悲[今宵物に触れて自然に悲し]
聲寒絡緯風吹處[声は寒し絡緯風吹くの処]
葉落梧桐雨打時[葉は落つ梧桐雨打つの時]]
君富春秋臣漸老[君は春秋に富み臣漸く老ゆ]
恩無涯岸報猶遲[恩は涯岸無く報ゆること猶お遅し]
不知此意何安慰[知らず此の意何にか安慰せん]
飮酒聽琴又詠詩[酒を飲み琴を聴き又詩を詠ず]
〈右大臣の職を拝してより、年月を過ごし、いくたびも楽しい思いをしてまいりましたが、今宵は物にふれてそぞろに哀れを催します。
吹きくる秋風の中に聞こえる虫の音は冷やかに胸に沁み、そぼふる雨に舞い散る梧桐の葉にさびしさが募ります。陛下はお年も若く春秋に富んでおられますが、それにひきかえ私は年老いてゆくだけです。
御恩は果てしもなく大きく広く、果たしてお報いできますかどうか、心細いかぎりです。この憂苦を晴らそうにもそのすべはございません。白楽天は憂悶を晴らす手段として三つのものを挙げております。
私もそれにならい、酒を飲み、琴を聴き、詩を詠じて、自ら慰めようと思います。〉
詩中の「絡緯」はクツワムシ。「涯岸」は果て、限り。第八句は白楽天の「北窓三友」の詩に拠っています。原題は「九日後朝同賦秋思応制(九日後朝同に「秋思」を賦し制に応ず)」です。
「九日」は九月九日の重陽節。この日は宮中で宴が催され官僚が漢詩を作りました。「後朝」は翌日の十日または後日に行われる後宴のことで、特に賜宴の後日の宴をさす日本独特の言い方です。
「同賦」は、「詩人たちとともに~を題にして詩を作る」の意。「応制」は天皇の命に応えた作であることをいいます。
平安時代は、天皇を中心に詩筵が多く開かれ、天皇が出した題にそって詩を作りました。「秋思」は、秋のさびしい思い、秋の悲しみ。
中国で「秋は悲しい」ものと認識し、さびしさを誘う風物を詩に詠うのは、戦国時代の宋玉(前二九〇~前二二三)から始まります。
その「九弁」は冒頭「悲しいかな秋の気為るや、蕭瑟として草木搖落して変衰す」と詠われます。
その後中国に「悲秋文学」が定着し、日本にも影響を及ぼします。
「応制」は、中国でも日本でも一般的に、宴に招待された御礼をのべ、楽しい宴のようすを描写し、主催者が長生きされますようにと詠います。
一方で招待した人は、来年この宴が開けるかどうか分からない、と悲しく詠いました。ですから、自らの悲しい思いを詠う道真の詩は、特殊なものということになります。
ちなみに中国の招宴で、自分の悲しみを詠った詩人は、杜甫(七一二~七七〇)です。
道真のこの詩は天皇に賞賛され、御召しの御衣を賜りました。ところが、翌年、事態は急変します。
道真は昌泰四年一月七日、藤原時平とともに従二位に叙せられます。が、同二十五日、突然、大宰権帥に左遷されることになったのです。
その時の「宣命」は以下のようでした。「右大臣菅原朝臣は寒門から俄かに大臣に取り立てられたが、止足の分を知らず、専権の心があり、侫諂の情をもって前上皇を欺き、廃立を行い、父子の慈を離間し、兄弟の愛を破ろうとした」(『政事要略』)。
二月一日、道真は、妻と年長の女子を京都の家に残し、
東風吹かばにほいおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな
と詠い、年少の男女とともにあわただしく京を出立しました。
(次号につづく)