〈説明〉
50年以上の吟歴があり、なおかつ吟力も健在という人も実際にいらっしゃいますので、
一概に加齢による症状とも言い切れませんが、吟界全体の上位一割に属すと思われるほどの名吟家が70歳を超えてある日突然音程がめちゃくちゃになってしまったという方が、私の知る範囲だけでも 6人から7 人いらっしゃいます。
その中のある方は「伴奏が聞こえなくなった!」とおっしゃってましたが、その方は節の変わり目で急に2本も3本も狂ってしまうのですから、耳が遠くなられただけのことではなく、音程を判断する耳の構造に障害をきたしたか、または音程を判別する脳の機能障害が原因と考えるのが妥当だと思います。
今回のご相談は医学的な問題というより音感覚が変化したものと考える方が当たっていると思います。
名人と呼ばれる吟詠家が音程に問題が起きる時、たいていの場合、低い方に狂う場合がほとんどなのです。
しかもたいていの場合、1本下げても変わりなく、更にその本数より下がってしまうという場合が多いのです。
つまり本数が高すぎて届かないというわけではないのです。
「やや低め」が気持ちよく感じるのかも知れません。
それを裏付けることとしてこんな現象があります。
「音程が下がっている!」と注意するとその時だけ伴奏に合わせて音程を高くするのですが、伴奏とうまくかみ合わない、つまりハモらないのです。
「音程は合っているけどハモらない」という状態です。
私の身近な人で、同じような状態の人がいました。
十代のころからジャズを中心に歌っていたプロ歌手で20年くらいの経歴でしたが、私の耳ではとても上手だと思いました。
「さすがにプロは違う!」と思いました。しかしその後は次第にカラオケへ行っても歌わなくなりました。
歌うように勧めても「声が出ないから」と言って歌いません。実はこの頃音程が下がるようになってきたのです。
本人も違和感を感じ人前で歌いたくない状態だったのでしょう。私と二人だけの時に歌ってもらいましたが、
以前に比べ音程が下がり気味になり、合っているときも「下がりたい」声なのです。
ご本人の言では「自分にとってはうまくハマっている(ハモッている)と思うと音程は低めになる!音程を気にするとうまく落ち着かない」ということでした。
まさに「音程は合っていてもハモらない」状態です。
吟詠伴奏の仕事をして50年くらいになりますが、上手な人の音程の狂い方は、若いうちは高めに狂う場合が多く、高齢になると低めに狂うような気がします。
もっとも1/20本以内の高めでしたらほとんど違和感はないのですが、この1/20本が低い方へ狂うととたんに違和感を与え、聞き手のほとんどの人が音程の狂いを感じてしまいます。
もう一度念を押しますが、設定した本数が高すぎて高音が届かないという場合の話はしておりません。
この場合は吟じている最中に本人が気づく場合がほとんどです。
ここまで、肝心のご質問にお答えできていないことは承知しています。
音程が下がり気味になることの原因も、その対処法にも触れておりません。
申し訳ありませんが、その両方とも「解りません!」というのが正直なところです。
この件については私よりも吟詠家の方が察しが良いのではないかと思いますが、私なりの推測でお話させていただきます。
音程が合っていてもハモらない。また、ハモっていると感じる時は音程が低めになっている。
この状態は高次の倍音が整っていない状態ではないかと思います。
つまり基音に近い倍音は豊かでありながら、高い成分が規則正しく鳴っていない。
感覚的に表現しますと、声に硬い成分が足りないのではないか?と思うのです。この推測と呼応するかのようなことがありました。
殿堂入りともいえるベテラン吟者の吟詠を録音中、わずかに音程のぶら下がりがあったとき、そばにいた少壮吟士が「どういう状態かよく分かる」とおっしゃいました。
「筋力が落ちている」とも言っておりました。「喉を開くタイプの発声に起きやすい。私もそのタイプだからよく分かる」とも……。
腹筋を脱力すれば高次倍音が減ることは知られています。私の推測と筋力低下の話がよく符号すると思いませんか?
このことだけが問題点とは言い切れませんが、一つの可能性として考えてみる価値はあるでしょう。
吟詠中、筋力を意識してみましょう。とくに腹筋と背筋。また筋力を意識すると同時に硬めの発声を意識してみましょう。
長年吟じ続けてきているので必要な筋肉は衰えていないとお思いでしょうが。筋力は年齢とともに急速に衰えるものです。
若いときは普通の生活の中で自然と鍛錬されていたでしょうが。60歳を過ぎたら意識的に運動しなくては筋力を維持できないということは多くの人が理解しています。
ただ、実行しない人が多いだけで……。
※こちらの質問は『吟と舞』2019年9月号に寄せられたものです