李白「春夜洛城に笛を聞く」
春の夜はどのような思いにひたりますか? 「春愁秋思 」
―春は物憂く、秋はもの思いに沈む―という言葉もあります。
李白は春の夜ふと笛の音を聞き、次のように詠います。
誰家玉笛暗飛聲[誰が家の玉笛か暗に声を飛ばす]
散入春風滿洛城[散じて春風に入って洛城に満つ]
此夜曲中聞折柳[此の夜曲中折柳を聞く]
何人不起故園情[何人か故園の情を起こさざらん]
〈どこの家で誰が吹くのだろうか、どこからともなく笛の音が聞こえてくる。
その音は春風に乗って洛陽の町のすみずみまで響きわたる。
この夜、曲のなかで、折楊柳を聞いたが、
この曲を聞いて、いったい誰が故郷をなつかしく思わないものがあるだろうか。〉
李白三十四、五歳ころ、太原からの帰途、洛陽で作った作品です。
「洛城」は洛陽の町。「城」は天守閣のある日本の城とは違います。
中国では町全体が城壁で囲まれていましたので、町を「城」あるいは「城市 」といいます。
「聞」は聞こえてくる。同じ「きく」でも「聴」は耳を傾けてきくことをいいます。
この詩は、詠い出しの「誰」が意表を突きます。
一般的には、笛の音が町中に響いている、と詠い出し、いったい誰が吹いているのだろうか、と承けるでしょう。
「誰」=誰かは分からないので、美しい笛の音が「暗に」=どこからともなく聞こえてくるのです。
もちろん「暗」は夜であることも表します。
この詠い出しによって読者は一気に詩の世界に引き込まれてしまいます。
「玉笛」の「玉」は笛を美しくいう言葉です。上品で美しい音色の笛を連想させます。
「飛」と「散」が「春風」と 相応じ、柔らかで暖かな風に乗って美しい音色が町中に広がってゆきます。
それはまた心の奥深くにも浸みわたります。
「春」はさらに転句の「柳」を導きます。
言葉の連携とイメージの連環は「汪倫に贈る」(第14回)にも見られました。
「折柳」は「折楊柳( 楊柳を折る)」という笛の曲で、別離の曲です。
「楊柳」はヤナギ。
厳密に言えば「楊」はカワヤナギ、「柳」はシダレヤナギですが、漢詩ではあまり区別しません。
シダレヤナギを「 垂楊」ともいいます。ただし、「折柳」はあっても「折楊」はありません。
シダレヤナギの「柳」は別れになくてはならない植物だからです。
むかし中国では別れに臨んで柳の枝を折り、 環 にして贈る習慣がありました。
環は 環に通じます。
同じ音で別の漢字を連想することは中国ではよく行われることで、これを「 音通」といいます。
環にした柳の枝を旅人に贈ることによって無事に 環ってきてくださいという願いをこめたのです。
また「 柳」は「 留」に通じ、思いを留めることにもなります。
柳は生命力の強い植物ですから、健康でいてくださいという意味もあったでしょう。
柳の枝を折って贈る習慣から、のちに笛の曲の「折楊柳」が作られ送別の時に演奏されました。
柳には別れのイメージがあるため「客舎青々柳色新たなり」(王維、第24回)などのように別れの詩によく詠われます。
中国では柳を贈ることが「餞」=「はなむけ」だったのですが、日本語の「はなむけ」という言葉は、旅人の行く方向へ馬の 鼻面を向ける「馬の 鼻向け」からきています。
『土佐日記』の冒頭部分に次のようにあります。
二十二日に、和泉の国までと、平らかに願立つ。
藤原のときざね、船路なれど馬のはなむけす。
上中下酔 ひあきて、いとあやしく、潮海のほとりにてあざれあへり。
さて、李白の詩の結句は「何人不起~(何人か~起こさざらん)」とあります。
「いったい誰が起こさないものがあろうか、いや、みな起こす」という反語表現です。
「みな」の意は承句の「満」と応じます。
「故園の情」の「故園」は故郷の家の園庭です。
その故園への熱い思慕の情が「故園の情」です。
春の夜に湧きおこる望郷の思いを、笛の美しい音色とともにしっとりと詠った名作です。