芳野三絶
日本では、江戸時代、とくに後期になると、漢詩を読む人はもちろんのこと、漢詩を作る人が爆発的に増えます。詩を作るための韻書が多く出版され、詩の題材も広がり、日本にしかない富士山や桜がさかんに詠われました。桜を詠った詩に「芳野三絶」といわれる三首の絶句があります。「芳野」は吉野を雅に言ったものです。
三絶の作者は頼杏坪(一七五六~一八三四)、藤井竹外(一八〇七~一八六六)、河野鉄兜(一八二五~一八六七)です。頼杏坪ではなく梁川星巖(一七八九~一八五八)をその一人とする説もあります。
頼杏坪の「遊芳野(芳野に遊ぶ)」は、酒を飲んで草を踏みしだいている多くの人々と、独り後醍醐天皇を思って感慨にふける作者が対比されています。
萬人買醉攪芳叢[万人酔を買うて芳叢を撹す]
感慨誰能與我同[感慨誰れか能く我と同じき]
恨殺殘紅飛向北[恨殺す残紅の飛んで北に向うを]
延元陵上落花風[延元陵上落花の風]
後醍醐天皇の陵墓「塔尾」をさします。後半は、陵墓の周りに植えられた桜の花がおりからの風に散り北に向かって飛んでゆく、それを見ていると恨めしく悲しい、と。遺詔に「玉骨はたとい南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思う」とあるのにより、陵墓は北向きに作ってあります。陵としては異例です。
「北闕」は京都をさします。花びらは、後醍醐天皇の御魂を護って都に飛んでいくかのようです。また作者のとめどない涙のようでもあります。
藤井竹外の「芳野回顧」では、眉毛が雪のように真っ白な老僧が登場します。
古陵松柏吼天飈[古陵の松柏天飈に吼ゆ]]
山寺尋春春寂寥[山寺春を尋ぬれば春寂寥]
眉雪老僧時輟帚[眉雪の老僧 時に帚くことを輟め]
落花深處説南朝[落花深き処 南朝を説く]
「松柏」は墓の周りに植える木。「柏」は「カシワ」ではなく「コノテガシワ」という常緑樹です。「天飈」はつむじ風。その風に松柏は猛獣の吼えるようなうなりをあげています。如意輪寺のあたりに春を尋ねて行くと、花はおおかた散り、人影もなくひっそりしています。そのなか、ただ独り老僧が散り敷いた花びらを掃いています。そして時おり手をやすめ、なおもハラハラと散る花びらのなかで南朝の昔を語ってくれた、と。
「老僧」の語る南朝は五百年前のことになりますから、南朝時代を実際に知っているわけではありません。「眉雪の老僧」とあると「物知りのお坊さん」を超えて、舞う花のなかの仙人のような感じがします。四句すべて景色を詠っていて、結句でしみじみとした味わいをかもし出します。
この詩は、唐の元稹の「行宮」を下敷きにしています。
「寂寥古行宮、宮花寂寞紅。白頭宮女在、間坐説玄宗」(寂寥たり古行宮、宮花寂寞として紅なり。白頭の宮女在り、間坐して玄宗を説く)。この宮女は玄宗の時代の生き残りです。
後醍醐天皇は第九六代の天皇で、新政をこころざし北条氏を滅ぼして建武の中興を成し遂げました。が、足利尊氏の離反によって吉野に遷幸し、南朝を樹立、失意のうちに崩御しました。吉野といえば桜。漢詩の世界では悲劇の天皇後醍醐天皇が桜とともに詠われます。
河野鉄兜の「芳野」は、月光のもと、陵のほとりで野宿し、全身花の影につつまれて南朝の昔を夢に見た、という幻想的な詩です。
山禽叫斷夜寥寥[山禽叫断夜寥寥]
無限春風恨未銷[限り無きの春風恨未銷せず]
露臥延元陵下月[露臥す延元陵下の月]
滿身花影夢南朝[満身の花影南朝を夢む]
起句は、鳥が一声高く鳴いて、そのためいっそうの静けさにつつまれたことを言います。承句は、暖かな春風に天皇の無限の恨みがこもっているようだ、と。月下の花の影につつまれて見た南朝の夢、それは儚くも消え去った〈夢〉です。あふれる花影のように、哀悼の念と追慕の情があふれます。