王勃「蜀中九日」
九月九日望鄕臺[九月九日望郷台]
他席他鄕送客杯[他席他郷客を送るの杯]
人情已厭南中苦[人情已に厭う南中の苦く]
鴻雁那從北地來[鴻雁那ぞ北地より来る]
〈九月九日の重陽の節句に望郷台に登り、他郷においてよその宴席で、友の旅立ちを送る杯を酌み交わす。この南の地方の暮らしにつくづく嫌気がさしているのに、なぜあの雁はわざわざ北の地を捨ててこちらへと飛んでくるのだろう。〉
詩題の「蜀」は今の四川省です。「九日」は旧暦九月九日の重陽の節句。高い処に登る「登高」という習慣や、菊花の酒を飲む習慣がありました。菊酒を飲むのは一年の厄払いをするためです。詩題は版本によって「蜀中九日、登玄武山旅眺(玄武山に登りて旅眺)」に作るものもあります。「旅眺」は遊覧して眺めるの意。『唐詩紀事』(巻八)の邵大震の項に「九日登玄武山旅眺」の詩があり、また盧照鄰にそれに和した詩があると記しています。三人で玄武山に登って唱和したのでしょうか。一緒に登っていなくても、詩の内容から互いに唱和したことは確かです。
玄武山は、今の四川省中江県の東にある山です。玄武とは、蛇と亀を一体にしたもので、玄武山の石が竜蛇の形をしているのでその名がついたと言われます。一般的な注釈書では、望郷台は成都の北九里(約五キロ)にあり、隋の蜀王・楊秀が築いたものと言います。中江県と玄武山とは七〇キロの隔たりがあります。「望郷台」という台は、各地にあることから、固有名詞として玄武山にもあったのか、それとも単に「望郷の台」という一般的な意味で使ったのか、どちらにも取れます。
承句の「他席」は他人の宴席。解釈は二つあります。一つは王勃が招かれて加わった宴席。もう一つは、王勃が見かけた他人の宴席、とするものです。前者なら「客を送る杯」は王勃も一緒に杯を挙げていることになりますが、後者なら他人が宴席で杯を交わしているのを見ていることになります。ここでは前者の解釈で口語訳しています。送別の宴に参加する方が「望郷」の思いが強くなるからです。
転句の「人情」は人としての感情。「南中」は南方の地のことで、特に四川省・貴州省・雲南省を指します。王勃は山西省河津県の人、つまり北の人です。六歳で名文を書き、若くして沛王の修撰(史書の編述をつかさどる役人)になりました。しかし、当時諸王の間で流行していた闘鶏を非難する檄文を書いたため、高宗の怒に触れ免職になりました。その後しばらく旅をして、たまたま九日に蜀の望郷台に登ったのです。「鴻雁」はカリの類の渡り鳥で、大型のものを鴻、小型のものを雁と言います。
望郷の思いは、①南の地方の「望郷台」に登って北を望んだため、②北に帰る旅人を見送る宴席に連なったため、③北の雁が、自分はもう嫌でたまらない南にわざわざやってくる、という三つの事から詠われます。①から③へと表向きの「望郷」が見えにくくなりますが、逆に「望郷」の思いは強くなっていきます。
前半の二句が対句、後半の二句も対句という「全対格」の詩で、前半は「九」「他」を畳みかけてリズミカルです。後半は、普通なら故郷が懐かしい、とストレートに詠うところを、「どうしてこんな嫌なところに⋯⋯」とひねって詠い、望郷の思いを強調します。
王勃はその後、官に就きますが罪を犯した官奴をかくまい、のちに露見するのを恐れて殺したため、死刑の判決を受けますが、大赦をもって救われます。この事件によって父も交趾(ベトナムのハノイ付近)に左遷され、父を見舞う途中、南海の海に落ちて亡くなりました。西暦六四九年~六七六年、二十七年の生涯でした(諸説あり)。
王勃は、文章を書く時まず数升の墨をすり、大酒を飲んで一寝入りし、目覚めて筆を執ると一気に書き上げ、一字も直すところがなかったことから、腹に原稿があると言われました。「腹稿」の語源です。